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◆9.0所感(4号)【無断転載を禁ず】毎日掲載した過去の掲示板の内容を記録したものです。   最新

日本のどこにもない自然豊かな、昔の風情のある場所を作る

日本のどこにもない自然豊かな、本当に環境にやさしい昔風の風情のある住環境を作る
今日本は、不景気だというが、どうもやっていることは、
@変り映えしない
A差別化された発想がない
B経済発展や便利主義、科学万能の無味乾燥な世界
C地球は破滅への道を速度を速め、確実に歩んでいる
したがって、日本中どこに行っても最悪の環境で個性のない面白味も何もない場所ばっかりになってしまった。多額の金をかけて、役立たずの何やら村とか、美術館とか競技場や大きな施設等どうでもよい、くだらない箱物ばかり作る。
私の提言:
場所を限定して人間が住むのに理想的な環境のモデル地域を作る。そうして日本中どこにもないような自然を基本にしたゆったりとした生活環境を作る。老若男女の人々が気楽に歩く、サイクリングできる道や野外の運動場所を森や小池や外周路を作る。箱物は、質素でかつ最少に。多分こんなことは、不可能に思われるだろうが、環境の世紀に、こんな不可能なことを実現できないようでは、日本も終わりかもしれません。自然の法則を基礎にした。少なくとも日本の戦後の頃をベースに更に人間性豊かな環境を作りたい。
@公共交通は、無料とする
A自動車も基本的にレンタカーとし、不必要な自家用車は、高い税金をとる
B野外広告を一切禁止
C野外のスピーカーや音楽など一切の騒音を禁止
D誰でも使える乗り捨ての無料自転車
E家は木・土・紙・布製に限定また、建物の外観色を規制
F廃棄物にせず、使えるものは全部回収し修理して再生
G10種類の共同農場及び3つの共同牧場を作る。生ごみの肥料化・ボラテイアで運営
H雑木林や小川、河川をボランテイアで清掃・整備
I他府県の域内への車の乗り入れ禁止
J緑の森の中に、大木の下に家を建設
Kスポーツ施設、サイクリング道(土)整備、舗装道路を半減(レール式)
*その他

・お花畑の群生地をあちこちに作る
・標準の6タイプのログハウス以外の建設禁止
・お互いに先生になり勉強会や技能修得を実施する
・10軒に一つ共同ハウスを作る
・老人の介護所・施設を設ける
・生ごみ、木屑、は現地処理、屎尿は各家庭内ガス利用と肥料化処理
・無害排水は濾過し散水用に使用
・10軒に一つ共同雨水タンク設営
・無地又は白の容器包装の材質・形状等の標準化・統一
・木屑や枯葉で湯沸かし
・太陽光発電・風力発電・木屑や枯葉発電
その他自然法則をそのまま素朴に使うやり方を大胆に取入れることを、モデル作りの基本にしたいものです。

田舎の自然に学ぶ(都会は環境保全に逆行する)

前にも言いましたが、私は山の生活で食事後の皿洗いは、汚れ水を一端、鍋に受けて貯めておいて、下
水に流さずにわざわざ土のところに、捨てに行きます。こんなささいなことに気付かなかったのですが、密かに「これは素晴らしい、発見だ、感動だ」なんて思っています。 次に都会では気付かなかった点を幾つか思い付くままに、ご紹介します。 @自然原理に反することを平然としていると、永遠に環境は改善されない A水(川)は、下水ではない B水(川)は、十分汚水処理できない
C土は、汚水処理する D土は、有機物を滋養分に変える
E都会は、汚物処理が機能していない F各家庭の植木鉢は浄化装置 Gごみは資源の無駄使い H都会では、広告・音声・自動車騒音が当たり前になっている I自然界の基本・原点に戻れ(自然界のしくみを勉強し直す) J自然界では、有機物は自然が処理する K都会は、環境保全に逆行している(間違った対策が容認されている)
環境に悪い沢山の自動車を走らすために、道路を舗装し、土を排除し、人が密集して生活するために、コンクリート住宅が増え、暑いからクーラーをがんがんかけ、緑をとことん排除し、貴重な有機物の廃出物は、土に帰さず水に流し、川や湖沼や海は、膨大な滋養分によって肥え・有害物であふれる。科学者は、どんどん便利な機械を必要もないのに、研究開発する。新しい研究開発を実現した科学者は、環境破壊者にも拘わらず、表彰される。正に北朝鮮と変ることはない。そして環境破壊をますます加速していく。そんなことをしていて、何が環境に優しいものか?ありがた迷惑なんだ、この”金正日野郎ども”。
食事後の皿洗いを、汚れ水を一端、鍋に受けて貯めておいて、下
水に流さずにわざわざ土のところに、捨てに行くと、良いことづくめです。特に水質汚濁防止には最高です。
@腐るものは微量でも必ず土に帰す
A腐るものは微量でも水に出さない
B必要なく、無やみに物を燃やさない
C土を水浸透性のない物で覆わない D地面の面積の3倍以上の緑を確保
E紙と木と布と土で家・構造物を作る
F雨水を常時100%土に浸透させる
G有害物は水・空気・土に排出しない
H腐らないものをごみとして出さない
I公共の交通手段を使う(無料化に)
J物は修理し、おさがり、廻して使う
K戸外で一切音声や騒音を出さない

キーワード「ない」その6(あることはないこと、ないことはあること、豊かな時代には、得ずに、むしろ捨てることが大事)

金持ちとか、秀才とか、社長とか、・・・そういうものを手にした人を周りの人は羨むものです。しかしそういう人の中に「ああー貧乏人が羨ましい」とか「俺も馬鹿になりたい」なんていう人がいます。私でさえもそういう気持ちが少しは理解できます。
というのは、「手に入れたい」のと「手に入れた」のとは大きく異なるのです。手に入れたのものは、他人が考えるほど、良いものでもないと思うからです。手に入れようとしているうちは、すごく情熱を持って努力するものです。ところが手に入れてしまえば、それがいかに素晴らしく見えても、終わりは終わりなのですから。
「あれもこれもある」とうのは、単純に言えば、「満タンのタンクみたいなもので、もうダメヨ」という状況なのです。ダメなところに更に詰め込もうと頑張るのです。これはつらいですよ。もっと落ち着きなさいな。神様は、「汝は、一生、得続けよ」なんて言ってませんよ。逆に「なにもない」というのは、「空っぽのタンクみたいなものですから、まだまだokよ」という状況です。貴方は満タンのタンクと空っぽのタンクとどちらが良いと思われますか?
どちらが良いかは貴方が決めることです。でも満タンのタンクのほうは、新しいものが入れ難いという致命的な欠陥をもつていることをお忘れなく。あまりにも多くのものを持っているからといって必しも幸福ではありませんよ。人間をはじめ全ての生き物は、呼吸していますが、息を吐くから空気を吸えるのであって、もし吸うだけだったら、死んでしまいます。得ることと同じだけなくすことをしないと息が詰まるという理屈です。
空っぽのタンクは、何でもいくらでも入るという利点があることもお忘れなく。何もないからと言って、勝手に惨めだと諦めずむしろ楽しく生きましょう。
私は、どちらかというとあまりないほうの部類でしょう。金も、地位も、美貌も、才能もあまり恵まれてはいませんでした。悔しさ半分・負け惜しみ半分ではありますが、中途半端にあまりなかったために、いろいろ知恵も工夫も努力もしたし、それなりに楽しかったように思っています。
下手に才能や力や幸運があると人間はどんどん多くのものを得るものです。そういう人を羨ましいというのですが、待てよ、得ることは、結果的に、多くのものを失うことなんだと、思えばそんなに羨むこともないでしょう。ないことをもっと楽しむゆとりを持つことにしませんか?最近『癒し』というのがブームになり、盛んになっていますが、癒しとは、「妥協」「捨てる」「バランスとる」ということなんですが、「癒し」が「癒し」にならないのは、薬飲んで、深酒や無理するような間違いを犯しているからです。または意地悪婆さんが、お化けが詰まっているのに重いつづらを選ぶようなものでしょう。得ることに汲々としていると何も得ることはできなとい結果になるのです。癒しとは、基本的に捨てることであって、癒しを得ることではないですよ。もっと「大胆に捨てません?」昔のように貧しい時代ならばともかく、こんなに豊かな時代になったのですから、「お化けのつまった重荷を捨てること」ができるのですよ。豊かな時代のキーワードは、「ない」又は「軽くする」なんです。「捨てる、得ない」なんて贅沢なことですよ。
これで「ない」シリーズは終わりです。

キーワード「ない」その5(あるものより、ないものを探せ、それを商売にすると大儲けできる)

人間は本能的に「ないもの」又は「ないと認識するもの」を求めます。地位・名誉・女・金が代表的なものです。だからよく詐欺士がやる手は、相手がないものを与える手口です。愛・優しさ・美男・金・地位などを手段に相手を騙すのです。詐欺士は、ターゲットをまず調査と分析をします。この人に無いものは何か?恋人がいないのか、金がないのか、地位がないのか、人のやさしさに飢えているのか、豪華な生活なのか?・・・・
まず初期調査で「著しい不足事項」を突き止めます。つきとめさえすれば、あとは簡単です。嘘でも良いから、それを与えてあげるのです。餌まきです。飢えた魚は、針の先にしかけられた餌に食いつきます。しかしくいついたら最後逃れられなくなるのです。一度得るをそれを失うことを恐れます。針は、ぐいぐいと食い込んでいきます。予想以上の詐欺被害に遭うのは、自分にないものに無防備だから、弱いからなのです。
ということは、商売は、人が「自分にない」と思っているものを見つけたり作り出して、商品やサービスにするのが一番です。ない・欲しい・でも与えてくれる人がいない・これが商売のネタです。今は何も買うものがない、欲しいものはないと言いますが、そうではないのです。ないものはまだ沢山あります。
例えば
@健康・元気Aゆとり・いやしB美・芸術Cやさしさ・人間らしさ
D自然・山川草花E静かさ・きれいな環境Fめずらしさ
G仲間・家族H冒険・アドベンチャーI自己発見・自己形成
Jものづくり・肉体作業K安全・危機回避

昔の物のない時代に較べて、ないものというのは、物や表面的にばかり見ていると、かなり発見困難になっています。だからないものを探り出し、穿り出すような努力が必要になります。でも探せば随分出てくるものなのです。金鉱脈を探すようなものです。
金鉱脈はあるんですが、但し探さないと発見できなのです。「ない」ものを発見し、「ない」ことを意識させれば儲かります。しかし逆に言えば発見した人は、独占的ですから、うまくいけば、大儲けできるわけなんです。科学の世界でも発明発見というのがありますが、「ないものは?」の世界にも発明・発見があるのです。ノーベル賞はもらえませんが、金鉱脈を発見し、当たればそれこそ億万長者になれます。「ないものはないか?」を日々考えましょう。
21世紀の商売のキーワードです。また「ないもの探し」そういう馬鹿げたことを一人黙々とやることを楽しんで下さい。実用新案を考え、大成功する主婦のように、「ないもの探し」を。

キーワード「ない」その4(あるうちはわからない、あるものがなくなってはじめてわかる)

ある・ないなんてたいしたことないと思っていると、さにあらず、「ある」「ない」なんて言葉でさえ、人生にとって、すごく重要なキーワードなんです。ちなみに、貴方は、「何が?」「あるの?」「ないの?」そういうことを真剣に考えたことや意識したことってありますか?
ところで言葉っていうのは、本当は、生き物・なま物なんです。ところが、たいていの場合は、言葉が死んでいるものなんです。同じ言葉でも昨日と今日と明日は違うし、場所により、人により、条件によっても、かなり違うものなんです。また言葉を深く掘り下げると一つの言葉でも到底普通の辞書では表せない、無限のいろいろな意味を持っているのです。一つの言葉だけで辞書が一つできるくらいのものなんです。一つ一つの言葉の意味を深く知ることもなく使っているのは、立派なゴルフクラブを持っていても、極めてゴルフが下手な人のようなものなんです。学校では、言葉の意味は一つしか教えませんから、糞の役にも立たないのですね。アアーーー。「言葉の意味は一つ」それが、学校方式、入試テスト流なんだから。話になりません。アアーーー。
話を戻して、「今自分は幸せだ」と思っている方がおられるとします。又は「今自分は不幸だ」と思っている方がおられるとします。しかし更により幸福になったり、より不幸になると「一体本当に幸せであったのか、不幸であったのか」がわからなくなってしんまうことがあります。私は幸せというものは、あれもこれもなくしてはじめて実感できるものだと思うのです。「ずーと幸せな人には、永遠に真の幸せは訪れない」と言えるのです。「子供が幸せだという実感」と「大人が幸せだという実感」と「老人が幸せだという実感」は、同じ幸せでも、かなり異なるものだと思うのです。得ているだけ、そういう中で感じる幸せなんていうのは、ただそれだけのものでしかないのです。
ずーっと健康だった人が、「私は幸せです」なんて言たところで、次ぎの日に「癌になり、あと1年もちません」となっても、幸せと感じるかというと、多分そんなことはなく、「私は、世界一不幸です」と言うのに決まっています。そうだとすれば、昨日までに「私は幸せです」と言っていたのは、単なる感想、勝手な思い込みでしかなかったということになります。
そうだとすれば、本当の意味で「私は幸せです」と言えるのは、得るだけでなく、あれもこれも、なくした人が言わないと意味も価値もない戯言になってしまいます。と言うことは、幸せになる第一歩は、「まず可能な範囲で、なくすだけなくしてみること」が必要条件なわけですね。
あーそうなんだ、日々いろいろなこと言ったり、聞いたりしているが、経験が浅い人間が何言っても聞くに値しないんだ。少なくとも、意識の上だけでも、あれもこれも全部なくしたという心境になることが、まず大切なんじゃないかと考え出したんです。そのためには、私のようなレベルの人間がやれることは、@ろくでもない欲をまず全部すっぱり、捨て去ること、A真面目に生きること、B非常に恵まれ過ぎているという意識を持つことだと思います。私は、立派な修行僧ではないから、今更、全部を失うなんてこともできませんし、するつもりもありませんが、俗世間に住む煩悩を完全に捨て切れない人間として、それに近づくことが必要だと考えています。そうしてある程度「ない」という状況下又は「あり余る状況を否定した生活」のもとで、幸せを実感することが私にできる精一杯の心がけでしょうか。
「あれもない、これもない、こうしたい、ああしたい、不平、不満を持つ」ことは何の意味も価値もありません。あるうちは、欲しいうちは、何もわからないよ。まず、すっきりして、「何でも、いつでも、ありがたい」と思うことが、まず幸せの第一歩、初歩、入門では?

キーワード「ない」その3(「人間は、ない状態で生まれる」「ないものを追い求めるのが人生」「しかし、ないものを追い過ぎるのは苦&愚」「ないという意識を捨て、楽になる」)

人生というのは、本来「ない」状態で生まれる。衣類も食事も住まいも全てがない。だから最初は親が面倒を見る。
それらを得て親離れするために、研鑚を積み糧を得る能力を身につけ、自分でいろいろなものを得ることを覚える。そうこうするうちに、「これもない、あれもない」という思いが膨らんでくる。欲ばりになってもっと、もっとと手に入れようとする。

簡単に言えば、『人生とは、ないものを得る、追い求める』ことだ。

だからそのうち、次々に欲しくなってくる。そうすると、かえって失うもののほうが多くなってくる。あれもこれも得ようと褪せれば褪せるほど、むしろ得ることより大切なものを失うことになってしまうのです。

「得る」が行き過ぎると、反作用として「失う」が多くなる。しょっている重い荷物を更にどんどんふやして、山を登るようなものです。むしろ徐々に軽くしていくことが山登りを楽にするものです。

「衣食足って礼節を知る」というのはそういうことを戒めたものなのです。『人生はないものを得ることだ』しかし、「衣食足って礼節を知る」を忘れるほどに、多くの人は、得ることに狂奔してしまうのです。守銭奴みたいに見苦しい、あさましい人間になってしまいます。より金持ちに、女を、豪邸を、家具調度を、美術品を、宝石を、高級車を、名声を手に入れたくなってくるのです。
あれもこれもと欲張ったところであの世に持って行けるわけでもないし、それほど幸福になるわけでもないのです。とすれば、「ない」という意識を捨てて、「かなり多くのものがある、手に入れた」と思ってしまえ!若いうちはいいとしても、良い歳をして、あくせく、我を忘れて金もうけに目の色変えていることはなくなるはずです。失っていたゆとりが生まれるはずです。
「ない」という意識を「ある」という意識に変えるだけです。心も持ち方だけを変えればよいのです。すごく簡単です。難しい思考も金も人も何もいりません。意識さえ変えれば良いのですから。
意識を変えるだけなのです。「あれも欲しい、これも欲しい」を「あんなものいらない、こんなものもいらない」というように変えることです。
人間には、意識というものがあることを忘れてはいませんか?意識は、人間にとって重要な働きの一つです。意識を自在に操れる人は、魔術師よりもすごい。意識を自在に変えることこそ人間にとってどんな財宝より価値あるものです。
意識によって、人間は良くも悪くもなる。意識というのは恐いものです。ないものねだりの欲張り婆になるか、もうこれで結構と遠慮がちな爺さんになるか?

キーワード「ない」その2(自分にない”から”得たい”だけのこと、「ない」ものへの執着を捨てる)

私は男です。男ですから、本能として女性への興味は強く、55歳くらいまでは、女性特に美人には目がなかったように思います。若い男の大半がそうなように、女性や美人に関する関心・興味は、異常と言っても良いほど、すごいものでした。しかし60歳の今、冷静に思い直してみると、「馬鹿馬鹿しいし、女が・美人が何ほどのもんや、何でそれほどまでに執着していたのか?神様も随分罪作りだなー」というのが実感になっています。お金も贅沢も豪邸も地位も名声もない人は、そういうものに、すさまじく憧れるのです。それらの唯一の理由は、冷静に考察してみると、その人にそれが「ない」からだけなのことなのです。「ない」の度合いが大きいものほど強く欲望を感じるものなのです。数学でいうと「欲望」は「ない」の3乗・4乗に比例するのです。
神様はどういう機能を仕組んでいるかというと、食欲をはじめその他の生理的要求と同じように、キーワードは「ない」なのです。不足すると強い欲が起きるように仕組んであるのです。しかし満たされる(有る状態になる)と急速に、欲は減退します。空腹を満たした後、排泄した後、セックスをした直後の男なんかを考えればおわかりでしょう?例えば、若い男が女に過剰な興味を持ち、女が男に過剰な興味を持つ理由は、特じ自分にはないものであり、本質的に強い関心・興味・欲望を持つようになっているからなのです。
隣の家や庭が美しく見える、近所のお嬢さんや奥様が魅力的に見える、友人達が自分の数倍有能で素晴らしく見える、・・・というのは、「ないものねだり」という動物本来の心理や本能が強く働いているのです。隣人も友人も他人も自分と同じ又は以下の人の場合が多いのですが。自分には欠けていると意識してしまうのです。食欲は、お腹がすく「お腹に物がなくなる」ということから湧くのです。空気も水もなくなると欲しくなります。
「ない」→「欲」→「満たす」→「満足し、欲なくなる」というサイクルの繰り返しです。だからいかなる美人や美男でも結婚してしまえば、嘘のように、見向きもしなくなることが多いものです。得た瞬間に、強い欲望はゼロ状態になるのですから、人間は、欲を持つのも適当にしないといけないのです。「結婚式が愛欲の最大値」なのです。結婚後は、100%愛欲は、低減していくのです。ある意味では、本能ですから、いたしかたないのですが、本能を管理せず、勝手に放置していると、本能に振り回されて、本物の中毒患者や躁鬱患者になってしまいますから、自分にとって「ない」ものは何だ、「自分はそれに対してどう対応するべきか」ということを冷静な時に、調査分析して中毒にならないように心づもりしておくことが大切ですね。下手すると「ないもの」は、自分にとって大きなウイークポイントになるのです。本能は生きる上で大切な働きではありますが、あくまで自分が主体的に抑制することが大事なことです。テレビショッピングやカタログ販売なんてものは、この人間、特に若者の「ないもの欲しさの」浅はかな心理、本能の弱点を利用しているのです。
だから、冷静に考えると美人や美男子をあれほどまでの努力を払って、追い求めるのは、単純に『自分にない』からという理由だけなんです。「ないから欲しがる」のが人間だということを認識しておいて下さい。ないものへの憧れ、”追っかけ”や”ファン”や”マニア”なんてのも「ないもの追求者」なのです。自分自身が美人や美男の人の場合は、あまりたいした追っかけにはなりません。プロ野球選手や歌手の追っかけ・収集マニア・グルメ追求・金髪茶髪・海外旅行・女性の化粧やバッグや衣服の過剰な購入、・・・彼らは本当に異常ですよね。「なんでそこまでやるの?」もっと冷静に「ないもの欲しさ」という自分の弱点を分析しないといけません。外人の金髪は格好良いですが、「日本人も金髪に」というのは、まさしくこういう意識が作用しています。だってあんなみっともない似合わないことを恥ずかし気もなくやっているのですから。茶髪が似合う人もいますが、ごくごく僅かです。

『”自分にない”から”得たい”』

こういう、本能やからくりをきちんと認識しておかないと、自分にないものは、全て追い求める又は遮二無二追い求めるようになります。子供がよくやるように「正夫君は持っているよ」「皆やっているよ」「あみちゃんも買ってもらったって」というような「ないものねだり」というやつになってしまいます。大人でいうと、ニコチンや競馬やアルコール中毒みたいなものですね。酒・麻薬というのは、悪いと知りながら、自分にない世界の魅力に惹かれてしまうのです。
最近私なりに心がけていることは、他の人が持っていて、自分にないものを求めるのでなく、自分にだけしかないものはないか?という思考を中心にすることと、あまり何もかも欲張り過ぎないこと、何かに執着し過ぎないことです。そうすると不思議に富や美人・美男やグルメを求め、都会生活求め、名声を求めるなんてことが急に失せてしまいました。「ないもの」を追うという本能に振り回されることの馬鹿馬鹿しさを強く実感したからです。それだけのものですが、案外できそうで、できないのです。物真似、他人や権威の価値観、羨望、闘争、人に頼りすぎる、・・・というようなことをキッパリ棄てることが大切のように思います。棄てられさえすれば、清々しますよ。
「求めよ、さらば開かれん」から「捨てよ、さらば開かれん」へ

豊かで便利で、快適な社会に住むと、いつしかそれが当たり前になってしまいます。ところが低開発諸国から日本に来た人は、日本の状況を見て、あまりの豊かさにびっくり仰天するはずです。

金持ちのお嬢様のように、日本人には、有り余る贅沢が、当り前になっているのです。日本人の認識は、かなり麻痺させられてしまっているものなのです。
今の時代は、@「麻痺症患者」とA「過敏症患者」が同居する社会になりつつあります。どちらも「どんどん得る」ことの弊害・副作用です。「不要なものでも何でも棄てないでとっておく、更に得ようとする」というのがあさはかな人間を、不幸のまま又は更なる不幸へと導いているのです。

@「麻痺症患者」:何事も当たり前で、鈍感になっている人。本来”有り難い”ことでも有り難いと感じない病気の人
A「過敏症患者」:有り余る豊かさに順応できず、拒否してしまい、受け付けなくなって、順応できなくなる人(アレルギー・過敏症・登校拒否・引き篭もり等)

大金持ちの子供は、贅沢が当たり前になって、親が裸一貫から築いた身代をつぶしてしまうものです。親の若い頃のつらい生活を味わさせなかった親の責任なのです。親は、自分の歩んだ人生というものを、自分の子供に対しては活かせないもののようです。親は、幾ら金持ちになっても子供には贅沢をさせてはいけない、贅沢をしてはいけないのです。子供がかわいければ、かわいいほどそうすべきなのです。簡単なことなのですが、こういうことができなのです。その点、たいして金持ちでない貴方や私は、むしろ非常に幸せなのです。
もし、どうしても贅沢をするのであれば、内緒で別荘を作って、そこだけは贅沢でもよいが、自宅のほうでは、質素な生活をしないと子供はかわいそうなのです。大金を持ったら、豊かになったら、その時こそ、『ない』という状況をいかに維持するかが、大切なのです。そういうものを、はっきり分けなくてはいけません。金持ちのお坊ちゃんだからといって、子供を一流私立学校にいれ、高級車で送り迎えし、ご馳走を食べさせ、豪邸に住み、贅沢な生活をさせてはいけないのです。キーワードは「ない」なのです。「ない」ことに戻って考え・行動しないと必ず弊害が貯まり、そのうち爆発します。
過敏症の人は、全く同様に無理やり豊かな社会に順応する必要はないのに、その状況をなんとか維持しようとするために過敏症から脱出できないのです。豊かな都会生活をする人を真似たり、自分もそうしないと損した気になるのは、馬鹿げています。「過敏症」というのはある意味、警告なのです。その警告の意味を自分なりによく分析してみるのとが大切です。「いかにしてこの都会生活、ストレスの多い生活を維持しよう」ということを優先するから問題は解決しないどころか益々解決困難になってしまうのです。例えば化学物質過敏症やアレルギーの人は、「そういうものから遠ざかりなさい」という警告なんですから、素直にそれに従うことを優先して、現状分析をしないといけません。根本的な解決方法はやはり、「ない」又は「なくす」なのです。
「ない」とか「なくなる」といものを「失う・損する・のけ者にされる」とマイナスイメージで捉えるとどちらにしても、良い結果は出ません。宗教家が世を棄て山に篭り修行するように、現代人は、「積極的に棄てる」ことの意義や価値を積極的に考え受け入れる素養が必要なのです。
「ない」こと、「失う」こと、「なくす・止める」ことを恐れない。むしろ「ない」こと、「失う」こと、「なくす・止める」ことが解決のキーワードだという認識を持つことも大事なのではないでしょうか?

キーワード「ない」その1(棄てよ、されば開かれん)
豊かで便利で、快適な社会に住むと、いつしかそれが当たり前になってしまいます。
ところが低開発諸国から日本に来た人は、日本の状況を見て、あまりの豊かさにびっくり仰天するはずです。
金持ちのお嬢様のように、日本人には、有り余る贅沢が、当り前になっているのです。日本人の認識は、かなり麻痺させられてしまっているものなのです。
   今の時代は、@「麻痺症患者」とA「過敏症患者」が同居する社会になりつつあります。どちらも「どんどん得る」ことの弊害・副作用です。「不要なものでも何でも棄てないでとっておく、更に得ようとする」というのがあさはかな人間を、不幸のまま又は更なる不幸へと導いているのです。

    @「麻痺症患者」:何事も当たり前で、鈍感になっている人。本来”有り難い”ことでも有り難いと感じない病気の人
    A「過敏症患者」:有り余る豊かさに順応できず、拒否してしまい、受け付けなくなって、順応できなくなる人(アレルギー・過敏症・登校拒否・引き篭もり等)

   大金持ちの子供は、贅沢が当たり前になって、親が裸一貫から築いた身代をつぶしてしまうものです。親の若い頃のつらい生活を味わさせなかった親の責任なのです。親は、自分の歩んだ人生というものを、自分の子供に対しては活かせないもののようです。親は、幾ら金持ちになっても子供には贅沢をさせてはいけない、贅沢をしてはいけないのです。子供がかわいければ、かわいいほどそうすべきなのです。簡単なことなのですが、こういうことができなのです。その点、たいして金持ちでない貴方や私は、むしろ非常に幸せなのです。
   もし、どうしても贅沢をするのであれば、内緒で別荘を作って、そこだけは贅沢でもよいが、自宅のほうでは、質素な生活をしないと子供はかわいそうなのです。
大金を持ったら、豊かになったら、その時こそ、『ない』という状況をいかに維持するかが、大切なのです。そういうものを、はっきり分けなくてはいけません。金持ちのお坊ちゃんだからといって、子供を一流私立学校にいれ、高級車で送り迎えし、ご馳走を食べさせ、豪邸に住み、贅沢な生活をさせてはいけないのです。キーワードは「ない」なのです。「ない」ことに戻って考え・行動しないと必ず弊害が貯まり、そのうち爆発します。
   過敏症の人は、全く同様に無理やり豊かな社会に順応する必要はないのに、その状況をなんとか維持しようとするために過敏症から脱出できないのです。豊かな都会生活をする人を真似たり、自分もそうしないと損した気になるのは、馬鹿げています。「過敏症」というのはある意味、警告なのです。その警告の意味を自分なりによく分析してみるのとが大切です。「いかにしてこの都会生活、ストレスの多い生活を維持しよう」ということを優先するから問題は解決しないどころか益々解決困難になってしまうのです。例えば化学物質過敏症やアレルギーの人は、「そういうものから遠ざかりなさい」という警告なんですから、素直にそれに従うことを優先して、現状分析をしないといけません。根本的な解決方法はやはり、「ない」又は「なくす」なのです。
   「ない」とか「なくなる」といものを「失う・損する・のけ者にされる」とマイナスイメージで捉えるとどちらにしても、良い結果は出ません。宗教家が世を棄て山に篭り修行するように、現代人は、「積極的に棄てる」ことの意義や価値を積極的に考え受け入れる素養が必要なのです。
   「ない」こと、「失う」こと、「なくす・止める」ことを恐れない。むしろ「ない」こと、「失う」こと、「なくす・止める」ことが解決のキーワードだという認識を持つことも大事なのではないでしょうか?
ISOのマネジメントシステムをもっと政治の世界に導入せよISOは現代の必須条件だ

  善し悪しはともかくとして、世の中非常に豊かで便利で快適になってしまった。こんなにまでする気持ちはなかったのだが、結果的に歴史上かつてなかったようなありあまるほどの豊な社会が作られてしまった。良い反面それに数倍する問題を抱えるようになってしまったのです。でも今更後戻りできないどころか、更に経済発展という形で更なる豊かさの追求が行われています。とういのは、実をいうと、もう止めるに止められなくなっているのです。そんなはずじゃーなかったのですが、何故か進み続けないとこけてしまうのです。
   「発展を止める=貧乏な生活」を意味することになってしまうでしょう。    問題点は、言うまでもありませんが例えば、次のようなものが出てきます。

   @環境破壊A資源枯渇B高齢化C膨大な経済負担D維持管理の困難さE緊急事態に対する脆さF肉体労働の消滅G貧富の差H人間関係希薄化I病気・障害の増大J歴史の大転換Kつらさ・苦労知らず

   ところで、このような未だかつてないような大きくかつ困難な問題を管理し・対応していくには、従来のように無能などっかのおっさんやおばはんが政治家気取り、経営者気取りで、山勘的・場当たり的な政治や経営では、無力になってきます。
現実に今政治家は、役割を果たせず、役立たない哀れな存在になっています。この点ISOのマネジメントシステムは、基本中の基本であり、こういう考え方を政治にも多いに導入していかないと、与党だ、野党だ、やれ利権だ、保守だ革新だといったようなことを振り回すようなことではうまくいかないでしょう。ちょうど日本刀を振り回して「やーやー我こそは、・・・・・・」てなもんから「鉄砲」や「近代兵器」のような管理手法即ちISOのマネジメントシステムの発想で、政治や経営もプロ的、抜けのない柔軟かつ堅牢なマネジメントを持続的にやっていかないといけないと考えます。政治は、もっと経済・金融・農林・水産・建設・外務・防衛・更生各分野毎に国を代表するレベルのかなりのプロの専門家を集め調査・方針・目的・目標・計画・ルール化・運用・監視測定・不適合是正・監査・首相のリーダシップや見直しにより、かなり厳格な経営・管理をしていくことが必要になります。政治と役所もかなり一体化したような形式にすべきで、今の国会のように議員が全課題にかかわるのでなくジャンル別に、縦割りに議員と役人を配置し、横は、首相が頂点に立ち、会社の経営者会議のようなもので調整すればよいのです。
   今の国会は、企業で言うと、一人で営業・技術・製造・生産技術・購買・人事・経理・・・全部にかかわるために非常に時間がかかり、議論が熟していない、専門家されていない状況になっています。企業で、日本の国会のようなノロノロ、お粗末な組織運営しているところは皆無でしょう。それなのに何故国会だけが、経営理論を無視してとんでもない非効率で効果の上がらない組織及び運営形態をとっているのでしょう。「ああーこのままでは駄目だ、なんとお粗末な日本の姿・・・・。」

不正・不浄・不純・不実・不敬・不毛・不備・不忠・不善・・・と決別し自己を磨き直す決意・覚悟しないことには、歩めども、歩めども一歩も前進がない
 60歳になって、過去を振り返りますと、なんと、やっと人生の出発点に立とうとしている自分に気付きます。これまでも自分の成長のために一生懸命、ひたすら頑張っ
てきたはずです。ところが何一つとして、自己完成に近づいているような実感がありません。むしろ、頑張るほど、どんどん遠ざかるような感じさえしています。悪賢くはなったり、生きる術を身につけたり、人間や世間のどろどろしたことがどうにか理解できてきたぐらいでしょうか。改まってみると、人間としての本質的な成長は、ほんの僅かしかないように思います。一千万里の一里くらいしか歩めていないように思うのです。人様には、「自分も随分大変な人生を歩んできました」なんて言っていますが、改めて考えてみれば、「至らぬ自分だという自覚」がやっと、できたのかと思える程度でしかありません。
子供が親離れできないように、しょうもない欲や思い込みと決別できないのです。舌きり雀という昔し話がありました。欲張り婆さんは、大きなつづらをもらってい家に帰り、つづらの蓋を開けると沢山の化け物が出てきたのですが、正直爺さんは小さなつづらをもって帰り、家で蓋をあけると宝物が出てきたという話です。所詮私ごとき凡人は、中身が化け物で一杯の大きなつづらを背負って人生を過ごしているようなものなのでしょう。重いつづらを汗して一生懸命家まで持って帰るような愚かしいことをやっているのだと思います。化け物しか入っていないと気付いても、その重いつづらを捨てる勇気さえ出ないのです。まず重いつづらと決別しないといけませんし、捨てる覚悟をしないといけないですよね。ところが人間は化け物でいっぱいのつづらに、更に多くの化け物をせっせと、詰め込んでいくものなのでしょうね。強欲ばあさん・じいさん「お化けのつまった重いつづらを捨てよ」改めて言う必要もありませんが、まあ自分の至らぬことおびただしいですね。

@人生の方針・目的がなっていない
A物欲・金銭欲・食欲・小欲が多い
B闘争心、名誉欲、虚栄心が大きい
C自分を掌握・抑制・働かせてない
D物事を粗末にし、大切にしない
E嘘つく、ごまかす、だます、脅す
F自分がかわいい、利己的、けち
G悪いとわかっていても改めない
H余裕がなく、せっかちであくせく
I困難に出会うと元気がなくなる
J失敗を恐れ、臆病者、勇気無し
Kつまらんことに拘る、縛られる

● 〜60歳は、何もしていなかった
● 60 歳 で、やっと目覚める
● 60歳〜は、初心にかえり、これからが本当の勉強

まあこんなことを思っても、どれだけできますやら?「三日坊主」になるだけでしょうか?まずは、覚悟をしないといけませんんね。
麻薬常習者にやアルコール中毒の人に止めろと言っても止めないように、60歳くらいになって、やっと駄目な自分に決別しようと心に決めるのですから、お粗末ですね。麻薬常習者にやアルコール中毒の人は、まず麻薬や酒との決別が必要なのですが、その決別という第一歩がなかなか踏み出せないのです。下手すると、一生中毒患者であったり、再起不能、身の破滅へと進んでしまいます。
偉い坊さんが想像を絶する修行をしても一生かかることを、俗世間でのうのうと生活している私達には、到底達することのできないことでありましょうが、凡人として大切なことは、麻薬や酒を絶つように、決別というか入門というかそういう瞬間を作ることが、まず大切であると思います。万一、その後たいした境地に達することができなくとも、だらけた自分と決別し、自分を磨く道に入門しようとすること自身が尊いことだと思います。自分を磨き直そうと決意・覚悟をし、入門しさえすれば、あとは死ぬまで真面目に自分を見詰め・高める・清めることを続けるしかないと思います。
修行というのは、終わりのない旅だそうです。これで悟りが開けたという時期が来るのでなく、一生涯続けるけることが本当の修行だということだそうです。
ところで、毎週日曜日朝5時から1時間、NHKで宗教講座をやっています。主に仏教のお話が中心ですが、我々凡人には非常に参考になります。是非毎週、ご覧になって下さい。日本人ですから、私達はなによりも、まず仏の心を少しでも知らないといけませんね。
ウンコは、きちんと自分のことは自分で処理する地球上で偉い・賢い奴なんだ貴重な資源でもあるんだ「ウンコは汚い・臭い・見るのも嫌だ、でも一身同体の貴方の分身だったんですよ」

 「臭いはオナラ、オナラは臭い、臭いはウンコ」ウンコは汚く・不衛生で・臭くて、当然皆様お嫌ですよね。しかしなんでウンコは臭いのでしょうかね?そういうことを疑問に思ったことはありませんか?食べるものは必要なもの、一方、ウンコが必要だなんて言う人はいませんよね。ウンコは、使用後の厄介物・不要物と思っていますよね。ところが、廃プラスチックや廃ガラス、紙屑、廃木材、廃油のほうがむしろ質が悪く、地球環境を破壊する、問題の多い、大嫌われ者なのです。その点ウンコは偉いですよ。ウンコは役にたつ奴ですよ。ウンコは、地域によっては、
@肥料A家の壁B燃料C魚のえさD明かりEメタンガス採集F土地改良Gその他に使われているのです。
少なくともウンコによる環境汚染で地球が壊滅することはあり得ないことです。「地球温暖化」と違って、「地球ウンコ汚染」などという国際会議や大きな環境問題に
なっているという話は聞きませんからね。廃プラスチックなんかは、処分に困って大問題になっていますが、ウンコハンは、そんな問題にはなっていません。これだけ見ても偉く、可愛い奴ではありませんか?ウンコハンは役立つ奴なのに、生まれた直後が臭く、ぐにゃぐにゃ、ばい菌の媒介をするということのために人間から嫌がられているだけなのです。特に都会の人間には、「お前はすっこんでろ」てなもんで、表に出れれなくなっているのです。
しかし人間にとってウンコは随分お世話になっているものなんですよ。昔の女中さんみたいに役立っているのに、表に出れらないというのと同じなのです。かわいそうですね。「ウンコ神社とかウンコ寺」でも作って菩提を弔わないといけませんよね。嫌な役を全部引き受けて黙々とお役にたっているのですから。ウンコは、よくよく冷静に見てみると「仏性」さえあるのですね。
山で動物のウンコに出会うことは多いですが、彼らは、臭いは1日、物は3,4日で消滅しますから、あまり気になりません。目ざわりだったら土に混ぜてしまえばそれで良いのですから。山の中では、ウンコハンは、格別嫌なものではありませんよ。でも山の動物達のウンコはコロコロしていてすぐに乾燥し、崩れ去るものなんですね。山の中には、多くの動物がウンコをしていますが、誰も片付けもしないのに、ウンコが目ざわりではなく、山は、美しく輝いています。
それにひきかえ人間のそれは、いかにも汚いものですね。動物のあのコロコロとした健康さはありませんね。都会の犬の糞も人間に「近くなっていませんか?都会は、自然の場所がないからウンコのいる場所がないんだ、先日も犬の糞を始末しないのはけしからんという番組がありましたが、私なんかは、「ウンコのい場所を作ってやれ」とウンコを弁護して言ってやりたくなります。都会は虫も蛇も蜘蛛も泥も凸凹道も雑草も皆不都合なものは、悪い奴というレッテルか焼き印を押して、いとも簡単に抹殺してしまうのです。「すみません、人間のエゴのためにもうしわけありませんが、遠慮してくれますか?」という謙遜な気持ちがまるでないのです。本来は、人間こそ、悪代官のように、けしからん、やからなのですよ。昔東京でも雑草が生えている場所が沢山ありましたし、犬も粗食で健康でしたから、犬の糞なんかもあまり問題にならなかった時期もあるのです。
日頃嫌われているウンコハンの日頃の疑問を次ぎにあげておきます。
下手な姉ちゃんや兄ちゃんや政治家より役立っているかもしれませんぞ。「くそー」なんて言うのは止めましょう。ウンコ様は、生まれてから死ぬまで、また死んでからも目立たずに、地球や人間の役に立っているんですよ。しかも人や地球に迷惑をかけません。地球上で最も偉い奴かもしれませんね。

@元々口から入った食べ物でしょう
A人間の身体になぜ臭いものがあって大丈夫なのか
B汚いものなのに、何故、人間は病気にならないのか
C腐ると何故あんな悪臭が出るの
D臭いがある、意味や目的があるのか
E臭いは、うんこの分解に関係があるのか
Fそう言えば、完全に分解すると臭いが消えるのは何故か
Gうんこは、何故、そのうち影も形もなくなるのか
Hなぜ地球はうんこで汚染されないのか(人間の作った廃プラはひどい汚染をしてい
る)
Iうんこを食べる奴がいるというわけか
Jうんこは汚いと思われているが、それを食べる生き物がいるのか
Kということは、うんこは栄養なんだ

最後にもう一度、ウンコさんを頭から嫌わずに、いとおしく思って下さい。貴方と一身同体だった、人や地球に迷惑をかけないどころか役立つ偉い奴なんですよ。美しいものほど棘があり、汚いものでも縁の下の力持ちもいるんですよ。

私の物差し・人生のキーワード
私の日頃、評価・判断・決定・行動する場合の拠り所は、次ぎのようなものです。ご参考になりますやら?
きちんとした自分なりの物差しを持つことは大切です。自分の物差しを当てることなく無批判、単純に、リーダーや有識者やマスコミや他人のもっともらしい意見や行動に振り回されないようにしましょう。もっと孤独になって自己を見つめ、真剣に自分と向き合い自分なりの信念を持つこと。人間は弱いものです。だから、よちよち・よろよろと頼り無いなりに、自分自身にあった杖、磁石、羅針盤を持ち、少しでもしっかりとした足取りで人生を少しづつ歩んで行きましょう。
□最高10点、□高い8点、□普通6点、□悪い4点、□最悪2点→12項目ありますから、合計点を1.2で割って下さい。
各項目について、判定は自分なりに、意識として重視しているかどうかで、判断して
下さい。やや甘くても結構です。

@多くの旅立ち:J → □最高□高い□普通□悪い□最悪
A自律自信自活:I → □最高□高い□普通□悪い□最悪
Bバランス重視:B → □最高□高い□普通□悪い□最悪
C自然法則遵守:N → □最高□高い□普通□悪い□最悪
D徹底的差別化:D → □最高□高い□普通□悪い□最悪
E感性情感重視:E → □最高□高い□普通□悪い□最悪
F誠実誠心誠意:S → □最高□高い□普通□悪い□最悪
Gチャレンジ心:C → □最高□高い□普通□悪い□最悪
H整理整頓清潔:C → □最高□高い□普通□悪い□最悪
I多くの大後悔:R → □最高□高い□普通□悪い□最悪
J質素倹約工夫:S → □最高□高い□普通□悪い□最悪
Kマネジメント:M → □最高□高い□普通□悪い□最悪

総合点 ?点

私の場合は、総合点85点でした。

50点、60点くらいならかなりましなほうですよ。 
貴方の住環境の場合は、何点か?きれいな環境か?
 □最高10点、□高い8点、□普通6点、□悪い4点、□最悪2点
各項目について、判定は自分にとって気分が良いかどうかで判断して下さい。

@空気:□最高□高い□普通□悪い□最悪
A 水 :□最高□高い□普通□悪い□最悪
B騒音:□最高□高い□普通□悪い□最悪
C景観:□最高□高い□普通□悪い□最悪
D 緑 :□最高□高い□普通□悪い□最悪
Eダスト:□最高□高い□普通□悪い□最悪
F温湿度:□最高□高い□普通□悪い□最悪
G密度:□最高□高い□普通□悪い□最悪
H 風 :□最高□高い□普通□悪い□最悪
I臭い:□最高□高い□普通□悪い□最悪

総合点 ?点

安曇川長尾の私の場合は、総合点100点でした。
ちなみに当社京都事務所の場合は、総合点26点でした。50点、60点くらいならかなりましなほうですよ。
極上の生活をしませんか?衣食を卒業し住及び環境の充実を、そのためにまず、都会主義を捨てよう

 今日本は、実に豊かで便利で快適になりました。例えば着るもの、食べるもの、電化製品、買い物、遊び、情報、・・・・。しかし肝心なものが最低のレベルであると思うのです。兎小屋と言われている家及び住まいの周囲の環境です。それは、その他の全ての素晴らしさを帳消しにしてなお余りあるものだと思っています。言い換えると、肝心なものを犠牲にして、次元の低いものの快適さを享受しているということです。最近は、それほど犠牲にしなくても極上の生活環境を手軽に得ることができる(広い家で住環境の良い場所がある)のに人々は、思い切れていないのです。
昔、日本では、終身雇用のために転職をする人が極めて少なかったことや、大企業より小企業のほうが面白いし勉強になるよと言っているのに、一向に耳を貸さずに我も我もと大企業へ就職したのと同じようなものです。
極上の生活に欠けているのは、住環境です。これを犠牲にして全が成り立っているのです。狭い家・緑や木々の無い家・汚い空気・ダスト・暴走族・騒音・振動・悪臭・犯罪・人ごみ(ゴミですよ)・糞暑い夏・クーラー掛けっぱなしの夏・家の中でテレビを見るだけの生活・・・こんな生活をよくぞ我慢していますよ。
極上の生活とは、今私の住む安曇川山中で得られるようなものなのです。少なくともバブル崩壊後の今ならば、少しの便利さを犠牲にするだけで購入資金(都会の家もそのままおいておくこともできます)や都会までの行き来の時間もさほど気にせずに手に入るんです。安曇川町の例では、病院は沢山あります。図書館もあります。立派なホテルもスーパーも飲み屋もDIYも100円ショップ2件もきれいな湖北の水泳場も・・・・ほとんど全てのインフラなどが揃っていますから、都会並みの生活がしたい人の場合でも、十分対応できるのです。
山の中という環境は、極上なグルメや邸宅や家具や着物より優れるものです。「衣食足って礼節を知る」=でも一番肝心な「住環境」が足りていませんよ。衣・食・遊にばっかり金と時間をかけるなんてまだ生活レベルが低い。早く衣食を卒業して下さい。衣食なんてのは、かえって粗食のほうが良いのです。衣食のようなくだらんことばっかりに貴重な資産や関心を集中させているのは、残念ですね。最初の2・3年の
生活変化に馴染むことさえできれば、極上の生活を四六時中、手に入れることができす。少しはその気のある方は、一度見学におい出下さい。言うとおりです、不便なことはないし、京都から40分以内だし、自然が一杯の広々とした、極上の生活空間が実際にあるということが理解されることでしょう。是非、ご自分の生活が何故一番なのか冷静に分析してみて下さい。「都会のゴミゴミした狭苦しい汚れきった生活環境が最高だという単なる思いこみ」に過ぎないのではありませんか?
今、山は、スミレが一面に咲き・桜がこれから満開に・そして新緑がもうじき・暖かい日差しと涼しい風・美味しい空気・鳥の囀りも元気を増しています。
でも念のため、安曇川でも山でなく平地に住むと、こういう自然の恩恵は半分以下になってしまいます。夏日中の糞暑いのは、都会と同じですし、車は道路をひっきりなしに走りますし、木々もあまりありません。私の所のように雑木林で囲まれ、小川のある小高い山が一番です。

5月3・4日に湖西の高島町で大溝曳き山まつりがあります
3日は夜、4日は11:30に曳き山勢揃いから巡行が実施されます。場所は、高島町の日吉神社です。高島町観光協会の「大溝まつり曳き山巡行”曳き手で活躍」というイベントが4日にあります。参加費500円、申し込みは、観光協会0740−36−8135FAX0740−36−8159
Eメイル:village@lily.ocn.ne.jp です。参加者氏名・連絡先住所・電話参加コース:Bコースで申し込んで下さい。JR高島町9:55分集合です。先着30名ですから、お早めに、駄目な場合は、一般人として見物されたらいかがでしょうか?私も当日は見物に行くつもりです。どちらにしろ高島駅に9:30分〜9:55分におります。日吉神社というのは立派な神社ですし、高島町は万葉の時代から昔は、日本海交易の物資や技術の中継基地として栄えた場所ということですので、それなりに見るべきものがありそうです。京都の祇園祭りにはないものがあるかもしれません。私もはじめてなのでわかりませんが?まつりでは餅まきや地酒のふるまいもあるとか?
14時に終わりますから、よろしければ安曇川の長尾山中の我が家にもお立ち寄り下さい。自動車ならば30分くらいでいけます。 
「現在・過去・未来」貴方は何処に生きていますか?過去に生きるのが最高なんですが?何故人間は、未来に生きようとするのか?

人間は、当然、現在に生きてはいますが、現在に生きること自体、ある意味大変で苦労が多いですよね。
だから、人間は将来に向けて「明るい未来を築こう」などと、あたかも未来に生きることが薔薇色のようなことを、しばしば、口にします。若者には未来があるなんてことも言います。「少年よ大志を抱け」なんて具合ですね。逆に老人には、「暗い?過去がある」という感じでしょうか?又は過去は忌まわしいもの劣るものとでも言いたいのでしょうか?
「過去を研究しよう」「過去を重んじよう」「過去に生きよう」なんてことを言う人がいないのは「コリャ、何でだろう?」
しかし、実を言うと過去に生きるのが一番合理的ではないのですか?最近はじけたバブルは、明るい未来を夢見すぎた大きな失敗だったのですから。もし「明るい過去に生きよう」なんていうスローガンがあれば、うまく行ったはずなのに。明るいのはむしろ過去なんです。全てわかっていることなんですから。きちんとシステムを構築しそれをルール化し、きちんと維持管理(メンテ)するというのが一番素晴らしい生き方なんです。それに対し未来は、わからないことばかりですから、真っ暗なんです。へまするとバブル崩壊のように争いや破滅・崩壊になることすらあるのです。
私が最近思うことは、成熟した社会においては、現在・未来に生きるよりも過去に重心を置いて生活すべきだと思うのです。というのは、過去というのは、すごく明るいのです。最も確実なのですから。地球環境問題も未来に向けて生きるのでなく、過去に生きればかなり解消されるはずなのですが、性懲りもなく、更に発展する未来を描いてしまうのです。
未来は不安定なのです。暗黒の世界なのです。皆様は「未来に生きないと一人前の人間でない」ような錯覚に陥っていませんか?何かやっさもっさと頭と身体を使い・動かしていないとサボッテいるように思う、妙に真面目人間なのです。もっと過去の財産をじっくり使ったらいかがなもんですか?例えば俺は奈良時代に生きるとか、私は江戸元禄時代に生きるなんて具合。現代人は、不真面目人間であるような気がするのです。だって、すでに実証され、確実な過去をあまりにも無視して、環境破壊を放置しながら、先へ先へと進むことだけを考えているからです。昔風に言うと、こういう生き方は、不良ッポイんです。過去のことを忠実に維持しながら、不具合だけを最低限是正して行くという生き方こそ、正に絶品な生き方なんです。急ぎ足で先に行くだけなんてのは、私流には、なんともダサイ、心の貧しい人の生き方なのです。ゆとりもなく、いつも落ち着かず、あわてふためく、一日中忙しそうに動き回る、食事を5分ですます。一日中会社で働く、夜遅く帰ってきて、また仕事をして寝る。これが未来指向の下手な生き方です。
老若男女を問わず、過去に生きる生き方をお勧めします。不確実・不明確な未来より、過去に思いをはせ、素晴らしい点を探し、取入れ、維持・管理していくという生き方です。
過去に生きることの利点

@確実である
A費用が少なくて済む
Bゆとりが保てる
C無駄や無理が極めて少ない
D失敗が少なく安心だ
E例え失敗しても被害が少ない
F更なる質の向上が図れる
G伝承がスムースに行く、長続きする
H楽だ
I環境への急激な影響が少ない

京都の老舗商法というのがありますが、あい通じるものがあるのかもしれません。 

後悔という名のすごい師「後悔は厳しい師匠に見えるが、実は心暖かい親です」
  誰の意見も聞かない頑固な人でも、後悔には勝てないようで、大概の人は、ひとたび、これが訪れると、土下座しひれ伏すのです。「私が間違っていました。多いに反省しました。今後は二度としないように、おきないようにします」てなもんです。『後悔』というのは、先生でも親でもお坊さんでもないのに、偉そうにもしていない、むしろ嫌がられているのに、実は、それほど偉大な師なのですね。
そうであれば、『後悔先生』『後悔大明神』と崇め奉って、神社を建て、お守りにすればその御利益や霊験あらたかなのです。しょうもない神社の御札なんてのは、高いお金を払って、ぶる下げていても、絶対に御利益はありませんよ。この世で最も偉大な師こそ誰あろう『後悔大明神様』なんですよ。『後悔大明神様』の霊験とは:

@後悔、先に立たない
A後悔するなでなく、後悔しろ
B後悔しないという後悔をするな
C後悔こそ、偉大なる師
D後悔すると、必ず改める
E沢山後悔すると、成長する
F早く後悔したほうが成長が早まる
G遅い後悔は、最悪な結果を生む(膿を早く出せ)
H大人と子供の違い=どれだけ多く・どれだけ大きな後悔をしたか
I沢山後悔するほど高い目標に到達できる
Jいろいろな後悔が幅を広げる
K後悔は厳しい師匠に見えるが、実は心暖かい親

「後悔」=「航海」かもしれない。大海原に漕ぎ出す一艘の小船、嵐にも寒さにも暑さにも故障にも海賊にも飢えにも出会うがそれらを乗り越えて目的地に到達することが大事なんだ。船出しない船では航海(後悔)もないが得るものもない。

知識・理屈よりも感性や情感を大切にしたい

 我々、戦後世代の特に男達は、経済大国や豊かな生活を目指し、一心不乱に頑張ってきました。
そのおかげか、どうも物事を理屈や知識で考えたり判断する傾向が強いのです。そのために、どうも理屈っぽく、知識にがんじがらめに縛られてしまっています。そのせいか日本男児は高齢化を迎えて益々元気や艶や魅力を失っています。まあ戦後の日本は、それでも良かたはずですし、私もそのおかげで随分勉強し、それなりの豊かな生活を手に入れることもできました。しかし今後もそうかというと、もういい加減に、旧来路線を真剣に、変えないといけないように思うのです。乱世や戦国の世が終わると武闘派は、そのままでいると、平和な時代には無用の長物となり、疎んじられてしまうことがあります。同様に現代は、知識・理屈派よりも、今後は感性・感情派がはばをきかす時代になろうとしています。理屈と感情の関係はどういうものでしょうか?人間は、豊かになろうとします。しかしいつまでもそういうことを追求していると、豊かさそのものをゲットするよりも豊かになるためのひたすら努力すること自体が目的化し続けてしまうのです。
知識や理屈は、戦後学校教育が主体の時期には、感情よりずーと崇高な存在のように思っていたところがありました。一方感情を主体にしたり、むき出しにして表現したり物事を言うのは、どうも場に馴染めない雰囲気があったものです。ところが世の中が知識や理屈で充満し過ぎて、その結果かえって、世の中がある種乱れているような状況においては、もう知識や理屈ばかりでは、物事がうまく行かなくなっているように思えるのです。
教育改革ということが叫ばれていますが、更に知識や理屈に偏重した勉強中心、試験の成績・進学中心の教育が更に強化されないように願っています。もっと日本古来の情感を大切にしたものこそ取入れて欲しい内容であるように思います。例えば、1月くらいまたは1週間でもよいから田舎で暮らし田舎の学校で勉強するというようなものなど何しろ人間には豊かな感情というものが基盤にあるんだということを教えてやって欲しいと思います。私の場合は疎開によって埼玉の山の中で1年くらい暮らしましたし、その後も湘南の鵠沼のおばあちゃんの広い家で毎夏過ごして自然に接したことは情感を磨く良い場になったと思っています。
私は、これだけ科学が進歩した時代においては、バランスをとるという意味においても、人間の感性とか感情を取り戻し、全面に出して、物事の善し悪しを人間という生き物を基盤にして判断するほうが理屈や科学一辺倒による大きな間違いが是正されるように思うのです。ところが、知識や理屈というのは数値化しやすい面を持っていますが、感性や感情というのは科学化・数値化しにくい面を持っています。したがってめまぐるしい現代では、効率よく処理できず、まどろっこしくて、人々の賛同が得にくいのです。どちらかというと、今後はあらゆる面において、男性的な思考や行動から女性的(特に日本女性的)な思考・行動への移行が顕著に見られて来るのではないでしょうか?自然豊な日本式の質素な住まいで、清掃が行き届き、何気なく生け花があしらわれ、物静かにゆったり振る舞う:日本女性の優雅さ・おっとり・謙虚さ・物静かさ・羞恥心・・・・といった感性が現代においてこそ素晴らしいのではないでしょうか。男の私でも、そういう感性に今、改めて憧れます。
本来人間が人間たるゆえんは、コンクリートの家でクーラーをがんがんかけ、ジーパンはいて、物が一杯に取散らかされた部屋で、テレビを見ながら菓子を食べまくり、ああーだこうだと理屈を並べ立て、論争するような殺伐としたものではなく、豊かな感性や感情や優雅さやゆとりではないのでしょうか?現代には、ふさわしくないように思って、感性や感情をこれまでのように抑制し続けていると、社会は、どんどんゆがんで、どうしようもないほど非人間的な方向、ついには、人間崩壊の方向へと突き進んでしまいそうな気がしてなりません。科学や理屈をあまりにも重視し過ぎて、善し悪しを判断するのでなく、人間の感性をもっと尊重すべきではないでしょうか?そうでないと、人間が可哀相というか、それこそ人格無視・人間無視のような気がしてなりません。
最近テレビで、外人の女が「日本人らしくしましょう」なんて言っていますが、実際に外人のほうが、日本のそういった良さを見抜いて、そのうち、寿司や豆腐や納豆が外国に普及したように、日本の感性が外国ではやることになるのではないでしょうか?外人が着物を着て、障子と畳の部屋に生活し、生け花やお茶をたしなみ、ご飯に味噌汁や糠づけなんかを作っているようになるかもしれませんね。日本は、本来伝統的に感情や感性を重んじる国であったはずです。都会文化・経済発展重視が中心になった頃から、そういう日本古来のものが、ほとんど失われてしまったのは残念です。さあ、感性や豊かな感情を取り戻し、艶やかで優雅な落ち着きとゆとりのある人生を取り戻したいものです。
まあこういうものも、あきれはてたフセインや金正日同様な政治家や役人や教育者達に期待するのは、無理・無駄ですから、皆様自分で取り戻しましょうね。

「東京浅草生まれの人間がなぜ一人、湖西の安曇川の山中に暮らしているのか?不思議だ、でもこれが自分の旅なんだ。」と今日感じた

今日、日曜日に高島町の観光協会主催の(0740−36−8135)の歩こう会に参加して来ました、56名の方々で、私くらいの年頃の、特に女性の方が多く参加されていました。高島町の周辺の古墳や城址のある小高い山を巡り5時間かけて散策しました。山の道は、きちんと散歩道に整備されていて、桜や沢山の花が植えてありました。すごく気分の良いコースでした。是非一度ご参加下さい。次回は5月4日(日)10:05JR高島駅集合で、大溝曳き山まつり参加費:500円です。道すがら土地に関する説明があり、万葉以来の湖西の歴史の一端に触れることができました、湖西というのは万葉の昔し、商業・経済において、日本の中心地だったらしいのです。というのは、当時は、朝鮮・中国からの貿易や新技術の導入が盛んで、日本海から高島や安曇川が経由地として、京都をはじめ各地に物資や技術が輸送されたんだそうです。その中心地が高島町あたりで、近江商人の大元の発祥地であったようです。その後、琵琶湖を渡り対岸の東側の近江八幡や長浜に近江商人が渡っていったそうです。
そういう話を聞くうちに、私がなんとなく「安曇川」に来た時に「ここだ」と直感的に思ったことが理解できたような気がしたのです。それはローム株式会社をはじめて訪問した時に感じたものに似ています。「私はある日突然、なぜか安曇川にひかれてしまった」のです。
東京工業大学などという立派な学校に入学でき、大阪にひかれ、松下電器に、そして京都に、そしてE工業に、そしてローム株式会社に、そして妻が病死、そして経営コンサルタントに、そして安曇川にひかれた、何かが、私をここに導いて来たような、そういう感じがしたのです。「人生は旅だ」「可愛い子には旅をさせよ」というようなことを言いますが、人間は、多いに旅をすべきだと思っています。寅さんみたいですが、私のフウーテン人生を振り返ってみると、良い旅とは「何かにひかれ」一個所に止まることなく、次から次ぎへと更なる旅立ちがあるということのように思います。
これに対して、悪い旅というのは、ほとんど一個所から動こうとせず、又は一箇所に止まろうとし、時々気を紛らわす程度に2〜3日の物見遊山のような旅、温泉旅行程度のことしかしない旅のことです。結果として、何にもひかれることや得るものはなく、真の旅立ちは、永遠に訪れないのです。「いい日、旅立ち」でなく「悪い日、束縛」みたいな感じです。高島町の小山を散策して万葉の世界を垣間見ながら、フーテンの私は、「感じたのです」「私が安曇川に来る必然性」のようなものを感じたのです。「一体これは、何だったんだろうか?」とその時思ったのです。
人間は、長い・遠い旅をすると、どんどん新しい旅が始まり、次から次ぎへと、旅立ちが出現するのだと思ったのです。そしてとんでもない遠い旅をしてしまうものなのです。それが本物の旅なのです。昆虫や甲殻類以上に、人間は、一生に何枚もの殻を脱がないといけなのです。1枚・2枚・3枚・・・・1000枚くらい脱がないと、何かに出会えないし、本物の自分を発見できないのです。
若者よ!場所・友人・仕事・趣味・恋人・・・なんでも固定化するな。ある意味では、「転職・引っ越し・離婚・別れなんてのも悪いことではないぐらい」のおおらかな気持ちで良いと思うのです。フーテンの寅さんですよね。結婚も就職も住まいも1回だけなんてことを、法律でも決め付けているわけではないんですよ。つらいけど、何かにひかれて雲のように、さすらって行くのも素晴らしい人生発見の一つのやり方かもしれませんよ。
私は、今日、安曇川に住む自分を大切にしよう、私みたいな人生を持ったものは、多分私くらいしかいないはずだ、そこに何がしかの意味があるはずだ、ひょっとすると私だけに課せられた使命があるかもしれないなんて思ったのです。そう考えると「安曇川」っていう名前にさえ、改めて良い響きを感じてしまいました。

都会人=10ki man、(10のkと1のi)てこれなーに

 10のキッチンと1つの居間ではありません。
      都会の状況をもじって「10ki」と書き表してみました。一体これは何でしょう?
      −−−−−−−−−−−−−
      1k:汚い(空気)
      2k:汚い(景色・景観)
      3k:汚い(川・水)
      4k:臭い
      5k:混雑
      6k:危険
      7k:けたたましい・うるさい
      8k:金・金・金
      9k:糞暑い
      10k:コンクリートジャングル
      1i:いらいらする
      −−−−−−−−−−−−−
   都会人(10ki man)は、このように、いらいらしながら、10のストレスに日々耐えているのです。
   どれも不必要なもの・有害なものばかりなのですが、10ki man達は、あたかもそのストレスを必要かつ大事なもののように信じているのでしょうか?
   一体そういう多大の代償を払ってまで、都会に住む理由は、何なのでしょう?
   都会に住んだその結果、得るものは何なのでしょうか?
   病気・犯罪・多忙・断絶・事故・悩み・自殺・喧嘩・詐欺・麻薬・売春・・・・
   天秤ってご存知ですか?右の皿に都会、左の皿に幸福をのせてみて下さい。
   左に大きく傾いているんですよ?単純なことですが、そのような事実を、まず理解した上で、なおかつ都会に住むのならば構いませんがね?でも麻薬にのめり込んで、禁断症状を恐れ、拒否している、人生の敗北者みたいなものではないのですかなねー?
   田舎に移り住むなんてのは、大変なことには違いありませんが、勇気をもって決断しませんかね?やってみれば、3年ぐらいで、「田舎は良い場所・住家」ということが理解できますよ。もし、理解できなっかたら、その時には、しょうがないから「10ki man」に再び戻れば良いじゃないですか?
   ほんの少しの勇気を出そうよ。「えっ?勇気は出ないって?」「そうか、そうなのか?残念だなー」
   「都会10kiは、一体全体何を得る場所なのか?」「それとも都会10kiは、人間の幸福を捨てる・埋める場所(墓場)なのか?」考え直す時期が、そろそろ間近に、来ているのです

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ISO14001ではなぜ何でもかんでも記録を要求するのか?(ISOここがわからない:その7)    

   環境マネジメントシステムで、重視することが幾つかあります。

      @方針・目的・目標を明確にすること
      A計画をつくり、きちんと取り組むこと
      B必要な資源(人・物・金・他)を確保すること
      C関連法令を特定し遵守すること
      D必要な教育の実施と能力の付与
      E組織を構築し責任権限を明確にすること
      F管理手順を定め遵守すること
      G監視測定を実施すること
      H不適合事項を厳密かつ確実に是正すること
      I実施事項は記録を残すこと
      J内部監査を実施し是正すること
      K経営者が関与し、自ら見直しすること

   この中で、Iの記録についてお話します。一般的に日本企業では、気軽に資料にすることが苦手なので、文書作成や実施結果を記録することは、嫌がられます。「なんでそんな記録がいるんだ?無駄だ」ということになり「できるだけ記録なんか作りたくない」と言うわけです。しかしよくあることですが、日本では、言った・言わない、やった・やらない、聞いた・聞かないが多いのも事実です。また必要な記録や文書がきちんと管理されていないので、せっかく作った資料が有効活用されていません。きちんと情報が記録され伝達されていれば、ミスや・無駄・ダラダラ会議も少なくて済むというものです。
   また日本は、幸か不幸か訴訟社会でないために、記録の大切さを理解できないでいる面が強いのです。ところが雪印でも日本ハムをはじめ数々の最近の不祥事は、記録がないということの日本企業のあり方に大きな疑問を投げかけられました。即ち、記録がないということは、「いい加減な仕事や管理になり、無責任主義が許される」「酒を飲んでいたんで何も知らんかった、ごめんなさい」式同様なことになりがちなのです。「教育を実施しましたか?」「実施しました」「教育記録を見せて下さい」「そんなものありません」ところがやったと言いながら社員のAさんは「そんな教育受けていませんよ?」てなことになることがあるのです。昔から日本企業ではこの手の出鱈目さが許容されてきました。しかし記録を残さないという欠陥は、企業を倒産や赤字転落に導くようなことにまでになって来ているのです。
   是非こまめに記録をとって下さい。そのために記録は簡単に済み、関係者への報告や保存が簡単に済むような工夫をして下さい。できれば共通の表にして      『いつ・誰が・どこで・誰と・何を・どうした・だから・誰が・何時まで・どうする』
   というような形で見やすくまとめておくことが大事です。そうしないとせっかくの記録が使われなくなって意味がありません。ところが日本の経営者や従業員は、だらだらと詳し過ぎるかつ肝心なことが抜けた記録や報告書を書く傾向があります。できれば前もって様式化しておき、簡単に記録できるようなもので良いのです。そして記録も直接パソコンに入力し、電子文書化しましょう。そうすれば記録もかえって仕事がきっちりできるようになるだけトラブルや大きな不祥事が減り結果的に仕事の能率が向上するようになります。
   「ISOはやれ文書やれ記録と煩わしいだけだ」なんて言って、こんな簡単なことすらやろうとしない経営者や従業員は、21世紀に事業を続けることはできないと断言しておきます。「そんな出鱈目な会社は知らん、勝手にしやがれ!」、あっ、すみません言い過ぎました。

山に一人で住んで勉強したこと:「無いこと・困ること・不便なことから教わる」

    今自宅は滋賀県安曇川、事務所は京都市伏見ですから、都会と田舎を行き来きしています。都会のほうは、つくづく便利です。また冬は、山に比べると非常に温暖です。(夏は、10度も暑い)それに対し山の中は、近所に人はいませんし、当然、商店や歓楽街や交通手段もありません。もっとも現代では、想像するほど大きな不便はありません。むしろかなり都会に近い生活さえできています。しかしやはり冬は寒いし、水が出ないし、何か買うこともできない、トイレは汲取りですし、やはり不便なことも多いのです。
   しかしその不便と付き合うというか克服しようとすると、知恵が出てきます。それらの知恵は、都会では絶対に出てこないものです。例えば、食事後の食器を洗う場合、食べ物カスは、私は、下水には流しません。小さな金だらいに貯めて、植木の水やりに使っています。都会では、多分やろうとしないことです。高僧で滴水禅師という方がおられ水を一滴まで大事にされたようですが、そのお気持ちがやっとのことで理解できました。昔汚染されていない時代にも、人々はきちんと環境保護としてやることをやっていたのですね。山では、下水に流すと、家の横の溝から、ドブに貯まって、一部は蒸発し、他はゆっくり地下に浸透していきます。そうすると、蚊や虫、ねずみなどが発生することに気付きました。なにしろ発生源と最終地点が家の敷地内ですから、わかり易いのです。食べかすは、排水に冨栄養化し、小はバクテリアから昆虫、藻や生き物のエサになり、ヘドロがたまり、異臭を放つことになってしまいます。不衛生になります。そこで洗い後の水を一度、完全に受けて、植木にやると良い結果が得られました。臭気や虫はわきませんし、植木にとっては、滋養になります。台所にも食べかすの詰りや悪臭や汚れやカビが生えなくなりました。些細なことですが、自然の働きをきちんと使うと、すごくうまく行くのです。
   都会では、糞尿は、自動的に下水に入り下水処理場で処理されます。しかしこういう目に見えない排水管のことを想像するとゾーットするのです。多分お宅の家から下水処理場までの下水管には、長年の富栄養物が腐敗しこびり着いているはずです。だって排水管を毎日とか毎月、清掃するようなことをしていないのです。見えていないからなんともありませんが、上水道も、かなりのヘドロが付着しているのですが、下水道は、その数倍ウイルスやたっぷり栄養をとったばい菌ども、ネズミやボウフラの巣になっていると思います。都会では、上水道も下水道も、ひどい不潔なものになっているのです。
   都会というのは、便利さを追求するために、多くのものを隠し・見えなくしています。「見えなくする=陰で問題が大きくなっていく」というのが都会なのです。都会の病的なことは、汚いものを見せないために、問題が見えないところでいつの間にか取り返しのできないレベルまで増殖してしまうことです。そしてそういう問題は子孫につけ届けとなって残されるだけなのです。私のところは簡易水洗式の汲み取り方式です。汲み取車が来ると汲み取りの3分くらいは臭いを嗅ぐことになります。都会では、本当はすさまじく臭いはずの人糞の臭いは完璧に隠されています。一方田舎では、人糞は輸送しますからむしろ清潔なわけです。昔日本では、農家では、人糞を腐らせた後、畑の土に返していました。臭いは凄かったですが、昔のこういうやり方の合理性を再認識しています。人糞ももっと積極的な再生資源化をすべきでしょうね。人糞も地球にとっては、貴重な栄養源なのです。
   山の夏は、京都より10度以上温度が低くしかも涼しい風が吹きますから快適です。その原因は土と鬱蒼とした木々及び小川と木や土が多量の保水をしていること、家自体が木で断熱効果が高いことが理由です。こういう状況は都会にはありません。アスファルト・木が少ない・川がない・保水していないのです。山は、完璧な省エネ構造だということが理解できます。わかったことは、都会でも家を覆うような木を植え池を設け・木と紙と土でできた家に住み・周囲は土むき出しにし雨水を溜めて日中はその水を散水して土を常時湿らせることです。
   食べ物も4日に1回しか町に買いに行かないのです。都会では、毎日何かしら買ってしまいますが、4日に一度ですから無駄買いが減ります。第一田舎で一人で暮らすにはあまり大したものは要らなくなるのです。空気がきれい涼しい、静かだと、きたない・うるさい・暑い・臭い・恐い「都会=5Kの町」に行きたくなくなるのです。
   去年から野菜も少しですが、植えてみました。今年勉強して来年は、広い場所を肥やすことから、始めてもっと本格的にやろうと計画しています。野菜は土からと言いますから今年はじっくり土作りをやろうと考えています。枯れ木や枯れ葉を燃やして独自の生ごみ処理も計画しています。都会ではできませんが、なにしろ枯れ木・枯れ葉は嫌というほどあるのです。
   薪で炊く露天風呂も今年は完成されるつもりです。湯船はすでにできているのですが、薪で炊くのをどうするかがポイントなのです。ラセンの管の先から水道の水をひきラセンの管を焚き火で温めるように工夫するつもりです。まあゆっくりしかできませんが、都会では考えもしなかったこと、「都会の常識は、山の非常識」なんだよね。都会でできないことが山では可能になるんです。こういうことに気付くことが楽しい。田舎に来ても都会的発想で生活しようなんてのはダメよ。なにしろ都会は物を考えないクセをつけてしまうようです。家はログハウスですから全てが木です。いとも簡単に変形・加工・追加が可能です。人間と生活・自然の一体感が山にはあります。都会は何か故障すれば金を払って修繕をしてもらはないと何もできません。ログハウスは、全部木ですから、もしそのまま放置してもやがては腐り、土に返るだけです。
   便利になればなるほど遠ざかって行く。都会人は、生き物からどんどんロボットになっていきます。都会の子供や若者達よ、君らはパソコンに足がはえているようなものになってしまっている。わかるかな?
      昔24歳で、東京から京都に来た当初、完璧な東京人であった私は、東京人の世間の狭さや、軽い感じや、人間関係の希薄さ、言葉の味気なさ、歴史のなさ、自然のなさ等を実感しました。必しも東京は素晴らしくない、どころか、東京は住みにくい、つまらん町だということを理解できたのです。都会に住んでいる人も同様に山に一人で住んでみないと都会の住みにくさを実感できません。「都会は素晴らしいところ」と信じ切っているのです。しかし都会は見かけだけが美しいだけなのです。都会を美男・美女に例えると、田舎は心のやさしい、しっかりした人なのです。「便利・物質的豊かさ=素晴らしい」ではないことを永遠に知ることができないのは残念ですね。東京の人に「東京は住むには日本で一番最悪・最低のところだ」と何度言っても、東京を出ようなどという人はいないのです。

現代社会に生きることへの疑問、国際化・グローバル化・都会文化はそんなに良いことか、政治家や役人は気違い集団ではないのか?もうノアの箱舟しかないのか?

     今世界は、グローバル化を良いことのように提唱しながら、けっして良い結果が得られていませんし、将来の見通しも暗くなるばかりです。一体何が起きているんでしょうか?地球環境は益々悪化するばかり、経済も教育も医療も社会保証も災害対策も平和維持も何一つよくなっていません。グローバル化とか国際化とかが素晴らしいことのように声高に叫ばれてきましたが、はたして本当に正しいかったのでしょうか?
   私は、多分こういう考え方が行き過ぎると、世界は確実に破滅へと一歩づつ確実に導くものとしか思えません。どういう理屈を並べてみても、不合理が巧妙に隠されてしまうだけのもののしか思えないのです。
   昔、共産主義が素晴らしい体制だということで、社会主義国家が次ぎから次へと誕生してきました。そうして自由主義国家との間で戦争をするような対立の構図まで作りだしてしまいました。そして何十年も真面目に戦争が想定されるような状況が続いてきました。しかし結果は、一応自由主義に凱歌が上がったようです。今は中国のほうがすごく自由主義をリードしかねない状況です。理想的と称するものには、必ず落とし穴があるのです。理想である一方で、地獄にでもなり得るのです。この世の中に完全に理想的なことというものはあり得ないのです。あるとしても、それは一時的なものか、又は一種の手品に過ぎないのであって、そのうち、ネタがばれたり、最悪の場合破滅や危機の引き金にさえなってしまいます。最近の政治・経済・軍事・外交の傾向は、手品のトリックのようにいかに人民をうまくごまかすかが主眼で、本質的な問題の解決を避けています。今回のイラク戦争が正しくその例です。北朝鮮もどうやら同じ筋書きで行きそうです。本質的解決は先送りなのです。
   応急処置ばっかり、つぎはぎだらけの世界になっているのです。酒場で、つけで一杯飲むようなものです。どんどんつけが溜まっていくのです。そのつけは厄介なものです。
   ですから自由主義が共産主義より優れていたなんて断言すると、またまた、とんでもない目に会うことになってしまいます。最近の日本やアメリカの行き詰まりを見ていると、「自由主義もそろそろ限界で、終わりかもしれない」と不安に思いませんか?常に絶対的に正しい主義や体制なんてあり得ないのです。時代や状況の変化にともなって大きな是正や方向変更(面舵一杯)をしないとといけないのです。自由主義国家でも実際にはむしろ共産主義的なしくみがかなり組み込まれるようになっていませんか?ということは、先進国家の将来は、既に危機的状況になり始めているのです。
   ことほど左様に、当たり前のような事でも「無批判に正しい」と信じ込んではいけないのです。「妥協」というのは悪い意味で使われますが、自然をよくよく観察すると、自然は妥協だらけなのです。常に妥協していくことによって自然は巧みに運用されているのです。気象・災害・大地の変動・生き物の変動全てを妥協させながら調和を図って前進しているのです。非常に弾力的な系なのです。

一方人間社会は、ますます硬直化し、妥協(改革)をしない状況に追いやられています。抵抗勢力がその最たるものです。悪の権化です。しんどくても私が提唱している「積極的妥協=改革」をしないといけないのです。わが国でも、簡単そうに見える経済問題を有能な頭脳をもってしても、未だに解決の目処さえつけられないでいるという事実が証明しています。改革を阻害・阻止する人々=抵抗勢力の排除ができていないのです。残党がまだ幅を利かしているのです。
   これぞ、イラクのフセインや北朝鮮の金正日と同じむじななのです。
   そうなると、身の回りのあらゆることが、「皆相当におかしい、まずい」と根本から疑うことが必要になってきそうです。政治・経済・教育・医療・住居・職業・生活・・・・あらゆる制度やしくみは、ひょっとすると、皆ほとんど適切性や健全性が失われてしまっているかもしれません。ところが抵抗勢力のように「いや今の制度や仕組みやルールは、適切であって、改善や手直しさえすれば良いんだ」という人が圧倒的に多いのです。一方「いやいや、かなりのものが機能をしてなく健全性を失っているか、その一歩手前なんだ」という考えの人は、まだまだ少ないように思います。
      そういうように「疑いの目」をもって、あらためて、制度・仕組み・ルールを穴があくほど見つめ直してみると、「こりゃえらいこっちゃ、まるで心筋梗塞や高血圧や癌のような状況になっており、機能不全に陥っている」と考えざるを得ません。皆さんはどう思われますか?昔、ルネサンスとか、経済や文化や政治や宗教などの革命なんてのがあって、思切って従来の慣習を打破した歴史があります。それらの場合でも、改革への抵抗はすこぶる大きかったようですが、苦労の末に、結果的には改革・革命に成功しているのです。そのようにして世の中は、躍動的に進歩発展してきたのです。
   ところが、世の中がそのようにして、どんどん良くなってくると、「改革みたいな、そういうことは、もう必要がないんだ」と信じ込むようになっている恐れがあるのです。要するに歳をとって身体が老化するように、改革という機能が欠落してきている危険があるのです。体制は老化し、現代人は、尊大かつ横着になっているのです。少なくとも、この豊かな生活を大きく犠牲にすることに対しては、当然ですが、かなりの人々が猛反対するのです。自由主義国家は、多数派の意見が賛成多数で採用されますから、改革というのは、昔の王政や一部の権力者へのレジスタンスとは、全く違った様相を呈するようになっているのです。「少数対多数」でなく「多数対少数」へと逆転してしまっているのです。このことは冷静に考えてみると、世紀末を連想するような誠に怖い背筋が寒くなるような話なのです。
   少数の改革派はどうすべきか?私なりの回答は、「多数派と違う場所、違う体制、違う価値観、違う生き方を自ら選択して、細々ではあるが、一線を画して抵抗して暮らしていくしかない」と思います。ノアの箱舟というのが、その典型です。多数派は、箱舟を作る少数の人々を馬鹿にするのです。しかし少数派は、そんなことには構わず、せっせと箱船を作るのです。残念ながら、こういう対処法以外に、これからの悲劇的な世界や
   地球の破滅や危機に対応する方法はあり得ないのです。皆が享楽的な生活を捨てることなんてのはあり得ないのです。多数派は相変わらず享楽的な生活をし続けるのです。現代は多数派の新派を形成するのは容易なことではなくなっています。今日本で国民の多数が政治や役所不信を抱いていて多数派を形成しつつあるのは、ある意味健全なのかもしれません。今回のイラク戦争反対も短期間に世界中でかなりの多数派を形成できましたよね。でも本質的な課題について、多数派を形成することはかなり困難であり、例え形成できても改革はかなり困難である可能性のほうが大きいようです。
   しかし私のような少数派の人間には、もうこういう都会的又は享楽的な生活は、不要なのです。ノーサンキューです。これ以上の科学進歩も異常なほどの豊かさの持続も、何も嬉しいこと、望ましいことではなくなっています。私は、現在及び世界が今後進もうとしている今のままの方向にノーを突きつけたいのです。「多数派の方とは、最低限のお付き合いはさせてもらいますが、もう恋人でも親友ではないよ、さよなら」と言いたいのです。現代特に都会的文化のあらゆることに対し、深い疑念を持ち、自然と親しみ、質素で堅実な生き方を取り戻したいと思うのです。特に都会や高度文明の有様は、すでにかなり異様としか言いようがありません。汚染・騒音・ヒートアイランド・過密化・砂漠化・生きがいの喪失・生態系の喪失・・・。
   なにしろ北朝鮮、イラクもそうですが、アメリカや日本でも政治家や役人や指導者が自分勝手なことをやっていること自体が信じられないことです。彼らの横暴さと無責任、無感覚さは限界をはるかに超えています。指導者が完全に徳や誠実さ謙虚さを失って利権だけを追求するあさましさ、彼らは”気違い病院の患者”ではないかと思えるほど異常さにはまっています。国民にはどしどしつらさを与え、自分達は平然と、高額な予算を計上し、だらだら、のうのうと、立派なオフィスで仕事をし、既存の利権や高額な報酬や退職金を得続けているのです。彼らが自分の立場や利権だけを維持することに、これ以上騙されたくない、付き合いたくない、巻き込まれたくないというのが少数派としての正直な心境です。

猿真似も人真似も同じレベルのことか?

    人がつまらんことをやることを「それは猿真似だ」と言ってあざけり笑ったりしますが、最近は、人間も猿とそんなに変わらないのではないかと思うほど堕落しきっていませんか。人真似も猿真似の域を出ないのではないかというのが、現代人に対する最近の私の評価や印象です。政治家・役人・赤字を垂れ流している経営者・学校の先生・坊主皆、猿以下の行動が目立ち過ぎませんか?
   お猿さんが、最近の人間を見て「人間のやることだけは真似ないようにしようね」なんて言っているかもしれません。ひょっとしてテレビで物真似や声を真似る番組を見て喜ぶ私達も猿以下なのかもしれません。謙虚さをすっかり忘れて「人間様は万物の霊長」だなんて威張っていると、とんでもないことになりそうです。人間というのは、成功すると、そのうち態度が大きくなってしまい。尊敬を受けない人、軽蔑に値する人間にと簡単に堕落して行くものです。現代人も、豊かな生活や享楽的な生活に有頂天になって「人間は偉大なり」といい気になって、高慢の極みになっているかもしれません。幾ら成功しても、大事なこと、失ってはいけないことは、「謙虚さ・素直さ・誠実さ・質素さ」です。
   ところで、過去の自分を振り返ってつくづく「人間は素晴らしい・完璧だ」なんて頭から信じ込んでいたことに気づき、唖然としているのです。確かに、人間は高い能力を持ってはいますが、「高い能力を持つ=立派な生き物」という考え方は、大いなる勘違いだということに気づき出したのです。ちょうど高価で立派なパソコンや電気製品が全く使いこなせないまま埃をかぶっているのと同じなのです。人間は、大量のほこりをかぶった、しつこい汚れのついたパソコンみたいになっているのです。いかに高性能でも、正しく機能していないものは、低い性能のものを正しく使いこなすより、劣るものでしかないのです。
   例が適切かどうかわかりませんが、美人にあこがれて結婚したが、とんでもない嫌な女だったり、家事一つ満足にできなかったり、幼稚な精神の持ち主であったということが、案外よくあるそうです。美人だからということだけで周囲の男性達は全員、「あんな素晴らしい女性と一緒になりたい」などと羨望の眼差しを降り注ぐのですが、実態は、とんでもない”まがいもの””くわせもの”であるということが多いようなのです。
   現代人も猿以下だと思うのは、これらの最悪美人さんの場合の連想からも沸いて来たのです。見掛け倒しの文化・詐欺的ごまかしの文化、そういう中で生きる人間自体も、どんどん猿以下になってしまっていませんか?SF小説のようにそのうち猿が人間にとって代わるかもしれませんよ。
   「お猿さん」でなく「お人さんやで、あいつらアホやなー」なんて軽蔑されたりして?猿真似はどちみち大したことではありませんが、人真似のほうが甚大な危険を伴うので、くれぐれも人真似には注意しましょう。「タバコは健康に害になります。タバコの吸いすぎに注意しましょう」ならば「人真似は精神の破壊をもたらす危険があります、人真似のし過ぎには注意しましょう、年齢には関係なく」ああ、そうか明日から「禁人」しよう。それにしても情けない時代になったものですね。

ISO14001かISO9001どちらを取得するか?(ISOここがわからない:その6)

 ・社長「そろそろうちの会社もISOをとらんといかんな、村上君、君はどう思うかね?」
  村上「そうですね、最近は、ISOはどこの会社もとっていますから、うちもそろそろですかね」
・社長「君もそう思うかね、それじゃ早速調べて企画書を作ってくれるかね」
  村上「わかりました早速かかります、ところで社長、ISOには9001品質と14001環境があるんだそうですが、どっちを取りましょうか?」
・社長「そうだな、うちは仕事の質が今一歩だから品質9001のほうが良いではないかね?」
  村上「でも最近は、環境に配慮しない企業は、世の中から評価されず、場合によってはボイコットされるという話を聞いたことがありますが」
・社長「へーそうかね、でもうちの仕事は環境とはあんまり関係がないし、公害も出していないしなー」
  村上「社長最近は公害を出していないからそれで良いのではなく、温暖化防止、グリーン購買、省エネや省資源、リサイクルなど環境問題の範囲は広くなっていて、当社も関係ないとは言っておられないようですよ」
・社長「君、忙しいのに、結構勉強しとるなー、やはり君にやってもらわんといかんなー」
  村上「最近は、環境番付なんてのが年1回発表されて、あまり低い会社は、社会責任を果たしていないという評価になるらしいのです、その結果株価にも影響するということらしいです。エコファンドというのをお聞きになったことがおありでしょう?」
・社長「おおそうかね。そんなことまでになっとるかね、環境ISO14001も無視してはいかんと言うわけだね」
  村上「そのとおりです、社長もさすがご理解がお早いですな。2003年末に大手企業は取引先にISO14001のマネジメントシステムを構築するように指令しているようです、そして2004年からは、いよいよ本格的にグリーン購買というのが始まって、いかに品質や価格が良くても、環境に配慮しない会社は取引から除外されるんだそうです」
・社長「ええー、嘘だろー。そんなことがやられようとしているのか?」
  村上「社長、地球温暖化によって今世界では急激で深刻な環境破壊や気象異常や奇病まで発生しているのはご存知ですよね。即ち環境問題は、地球自体の生命にかかわるもっと大きな課題だということなのらしいのです」
・社長「ああーそうかね、そういえば、よくよく考えると、地球ががたがたになっては、大変だな、ということは環境問題は企業経営に無縁ではないというわけか、ところでISO14001は難しいんではないのか?」
  村上「確かに難しいらしいです。特に当社は全くやっていませんから、でもやっていないということは、企業として環境に配慮していない企業ということで、その点が当社の欠陥、ウィークポイントであることになるのです。またコンサルタントに指導をうければ、かえって馴染みやすい取組みやすい問題であるということらしいのです」
・社長「環境問題だから社員も関心もあるし、身近な問題だから協力も得やすいかもしれんな、しかも省エネ、省資源、リサイクルということは経費削減にもなりそうだね」
 村上「あるコンサルタントは、環境の実務経験も豊富で、文書等は、ヒアリングだけして全部作ってくれるんだそうです。またそれらの文書は分量も少なく簡便なもので運用しやすくできているんだそうです」
・社長「そうだな、ISOをとるのも良いが文書や記録を作るのに手間ばっかりかかって、肝心な効果があまりあがらないという話を聞くなー」
  村上「文書や記録、資料は全部パソコンに入れてあり、全部パソコンで運用できるようになっていて、そこら辺の事務手続きも少ないということですよ」
・社長「ああそうか、それは結構だ、ところで、ISO9001とISO14001はどのくらい違うんだ?」
  村上「マネジメントシステムという観点では、ほとんど同じものであって、全く違う異質のものではないということです。だから両方を別々にやるより、一方を構築してそこに安全も品質もコストもあらゆる管理を統合して一元的に運営するのも一つの手らしいのです」
・社長「なるほど、それならとりやすいほうをとって、その上で拡大していってもよさそうだな、ISO14001をとっておけばISO9001を次にやる場合も楽かもしれんな」
  村上「そのとおりです、もしどうしてもISO14001とISO9001の両方の認証が必要であれば、順次取り組めばよいと思います。しかし二つも取得する必要がないのであれば、ISO14001に順次安全や品質を上乗せしていけば良いと考えます」
・社長「ISO9001をやれば品質向上になるのではないか?」
  村上「確かにそういうことも期待できますが、一般的にISOを取得すること=すぐに品質向上にはならないということです。肝心なことは、ISOをとろうがとるまいが、現実の品質問題を管理・改善することが先決のようです。ですからISOをやっても当面はかえって手間がかかり、肝心の品質改善がおろそかになる場合もあるらしいのです。」
・社長「ということは当社はどうしたら良いのかね?」
  村上「コンサルタントの先生が言うには、当社の場合ISO9001を取得するよりもまず品質管理体制や改善活動などの基盤作りからやっておかないとISOは重荷になるだけということでした」
・社長「なるほどそういえば、当社はもう少し足元をしっかりせんといかんかもしれんな」
  村上「対外的や営業面で、ISOを取得することが必要であれば、まずISO14001を取得して、環境に配慮した会社ということを社会に表明し、かつマネジメントシステムに慣れておくというストーリーはいかがでしょうか?」
・社長「なるほど、そうかもしれんな。少し考え方が変わってきそうだ。ところでどこのコンサルタントに頼むんだ。大手の良いコンサルタントは見つかったのか?」
  村上「実際にすでに取得した企業やコンサルタントに聞くと、大手のコンサル会社は、意外に質が低くかつ価格も高いということで評判が悪いらしいのです。また大手のコンサル会社の場合、小さい企業に対しては、あまり優秀なコンサルの先生を派遣しないようですし、契約後のフォローも先生まかせでいい加減だそうです。」
・社長「本当かね?でもそうだとしても、小さいコンサルタント会社はどこが良いか分からんではないのか?」
  村上「あるコンサルの方が言うのは、そういう優秀なコンサルタントを専門的な立場から、一人づつ吟味・評価して厳選した先生のみを安価で派遣してくれるというのです。固定費をかけていないので、安価で質の高い支援を提供できるというのです」
・社長「なるほど、固定費をかけてない分、安くしてくれるというのは素晴らしいな、我々の必要なのは、有能な先生そのものだけだからなー、ところで、君は忙しいし、環境についてはずぶの素人だができるんかね?」
  村上「ええーその先生が言われるには、文書や記録類なんかも、はじめはほとんどヒアリングだけで先生が作ってくれるそうです。我々はそれを勉強し具体的に運用しさえすれば良いようです、その先生が言うには”大工さんの場合、お客さんにのこぎりやかんながけや釘打ちをやらせないように、ISOでも文書作成はコンサルがやります”と言っておられました」
・社長「なるほど、そうかもしれんな、客が家建てても満足な家は建つわけがないはなー」
 村上「ところが一般的なコンサルタントは、見本をくれるだけで、次回までやっておいて下さい。そして何回も来て、それを手直しするらしいんですが、まともなものができるわけがなく、訪問も20回以上になり、手間もかかり、事務局は大変苦労するとのことです」
・社長「ところで、会社としてISO取得企業だとアピールできるから取得さえすれば良いんだろうね?」
 村上「実際には、顧客や役所の圧力で取得さえすれば、どんなもんでも構わないという会社が多く、その結果、ISOは役立たないものとされてい面があるようです。特に最近小規模の建設業さんがそういうやり方でISOを取得したために、最悪の状況になっているという話も聞きました」
・社長「でも企業としては取得さえすれば良いわけで、実質的な効果は期待しないほうが良いのではないのか?」
 村上「いやそんなことはないそうです。ISOのマネジメントシステムの精神は例えば優良企業のトヨタ・京セラ・ローム又ゴーン氏率いる日産も経営の基本になっていて、きちんとした経営管理という面で不可欠なものになりつつあるようです」
・社長「なるほど、君はそこまで考えていたか。結構やるじゃないか」
 村上「これからの若い世代が荷っていく管理というのは、従来のエイヤー式の管理や皆でワッショイワッショイとただ頑張るだけの管理では、うまくいかないとコンサルタントの先生も言ってました」 ・社長「ということは、やり方によっては十分企業を良くすることになるというわけかね?」
 村上「そのとおりです、従業員にISOのマネジメントシステムを理解させて、経営をスムーズかつダイナミックにすすめられる基盤をつくることが大事だということらしいです。ISOを真剣にやる/やらないは、企業間に大きな力の差も生み出しかねないということだそうです」
・社長「君も凄く調べたね。それじゃ俺もまたいろいろ調べてみるし、コンサルタント会社やISOを取得した他の企業を調べたり、見積もりをとってみてくれんか」
 村上「わかりました、それでは、来月までに更に調べて次回の経営会議で審議できるように段取りします」
・社長「そのせんでやってくれるかね、大変だけど、失敗や悔いのないように、事前によくしらべて、皆で検討できるように努力してくれ」

ISO14001は役に立ないが取得しないと商売に差し支えるのか?会社の大小を問わず、個人や役所を含めて必要なツールになってくる(ISOここがわからない:その5)

  ISO14001の認証が、日増しに多くなっていますが、お客様の大半が商売への影響を食い止めるためという消極的なケースが100%に近い状況です。まあ動機は、不純でも、せっかく取得するのですから、ISOのマネジメントシステムを有効に会社に定着して戴きたいと考えています。日本企業では、規模の大小で経営のやり方が違うという観念がまだ根強く残っています。「うちの会社では、ISOマネジメントシステムなんて柄に合わない」なんて具合です。規模の大小により、経営は全く同じではないにしろ、最近では情報ツールの発達によって、ほとんど差はなくなっているように私は思います。
      最近ISOを取得して戴いた小さ企業さんの場合を見ても、さほどの違和感はありませんでした。むしろ大切なことは、経営者がISOを経営の基本ツールとしてごく普通に当たり前に使ってもらえるかどうかにかかっています。否もしろ小企業さんほどISOを有効な武器に使うべきであろうかと思っています。京セラやロ−ムを見てご覧なさい。あんな小さな企業であったのに今は日本でも超一流の企業になっているではありませんか。あの瀕死の日産自動車がゴーンさんによって短期間に蘇ったではありませんか。大事なことは、企業の大小や、業績云々ではないのです。真面目に真剣に仕事しているか、経営管理をやっているかということです。
      昔戦国時代に信長が火縄銃を戦争に大規模に用い始めました。そういうような感じでISOのマネジメントシステムをきちんと企業や個人そして政治の世界にも定着して欲しいのです。
      私は、個人としてもマネジメントシステムの必要を強く感じる今日この頃です。小は小なりにきちんとしたマネジメントシステムが必要と実感したからです。子供でも老人でも家庭の主婦でも政治家や役人でも、何らかの厳格なマネジメントシステムが必要なのです。そうしないと現代社会では、大袈裟に言って、自己崩壊する可能性があります。「標準化されるのは何でもいかん」でなく世界標準であるISOのマネジメントシステムを、どうか皆様規模の大小を問わず、気軽に使い込んで戴きたいと思います。
      ISOのマネジメントシステムは認証取得が目的ではなく、自己宣言で良いのですよ。これならば、審査費用がいりませんし、より自由に管理を充実させることができます。またISOは14001又は9001どちらか一方のシステムを構築し、将来的には経営全般を載せこむようにすれば良いのです。例えば、まずISO14001環境マネジメントシステムを構築したら、品質も安全も利益も技術も皆その中に取り込み、一本の経営マネジメントシステムに統合して行けば良いということです。ISO14001と9001両方を別々に運営するのは無駄であり、意味もありません。ISOの審査会社を喜ばすだけです。
      「いい加減な会社=ISOマネジメントシステムを根付かせていない会社」になることは間違いありません。今後企業様が認証取得だけを目的にせず、自己宣言で良いからどしどしISOを取り入れることをお勧めします。そのためにはまず、私をお呼び下さい。一日かかっても、パソコン持参で具体的に、ご説明させて戴きます。ちなみに、認証取得でなく、自己宣言であればコンサル指導費を含めての費用も格安にですみます。認証はその後、様子を見て、効果があがった段階で、必要があれば取得すれば良いのです。

将来見通しの甘さが致命傷となる時代、危機が通り過ぎるのをひたすら待つという基本姿勢が日本人のアキレス腱。そしてつらさ苦しみを知らぬ日本の若者が日本の身代を潰す

 バブルが破裂することは、実際には、かなり以前にからバブル崩壊を予想している人が多かったようです。しかしほとんどの人は、そういう忠告に耳を傾けずにバブル破裂の被害者になってしまいました。そのひどさは、被害を受けた人には、致命傷になってしまったようです。多分その人達は、今も青息吐息でしょう。そして国家も破滅への道をひたすら歩むことになってしまいました。日出る国から日没する国になってしまいました。気づいて、事前に又は、すぐに早めに対策していればこんなひどい事態にはならなかったはずなのです。しかし日本人の更なる甘い見通しがこんな深刻な事態を招くということを誰が予想したでしょう?
      人間というものは「後悔先に立たず」であって、事前にあれこれ忠告されても真面目に予防・緩和・対応の準備をしないものです。人間は、笛吹けど踊らないのです・踊らないアホーなのです。人間は困難に遭遇して、はじめて泣き叫び・狂って踊るのです。このことが本来霊長類のはずの人間を犬畜生以下に引き下げてしまう理由なのです。
      是非、明日を来月を来年を10年後を50年後を100年後を見通して下さい。
「そんな先のこと考えてどうする」「そんな先のことはわからない」「そんな先のことを心配していたら何もできない」という方が日本には多いようです。若いときに高齢・病気・死のことを考えるのは無意味だと誰もが思うのでしょう。
      仏教などでは、年齢に関係なく、「生老病死」を真剣に考えておけ、若いからといって明日にも病気になり、死ぬかもしれないと警告しています。大事なキーワードは「多分明日も平穏無事なはずだ」でなく、「明日は、何が起こるかわからない」ということなのです。
      阪神大地震、バブル崩壊、環境破壊、深刻な有害物質汚染、大半森林が枯れる、日本沈没、年金破綻、・・・・も専門家は予想していたのです。具体的な話を一つ紹介すると、もう亡くなられましたが、元東大の糸川教授が、20年前くらいに、「逆転の発想」ということを盛んに提唱し、「これからの時代は我も我も大学に行くを止めて、専門学校や大工や職人などを目指すほうが良いですよ、今後は、従来良しとされていたことと反対のことをやるべきです」と言われていましたが、今正しくそのとおりになって、大学を出ても、頭の悪い奴は、就職さえできないという状況なのです。東大出ても、フリーターをやっている若者が多いのです。そういう人々の忠告に、素直に耳を傾けることだけでもやってみて下さいね。日本人は、議員さん、お役人、経営者、個人皆さんも、他人の意見を尊重しない傾向がかなり強いようです。
      昔の人は、貧乏で質素でしたから、それなりに将来を憂えて生活していたようですが、現代人は豊かな生活にどっぷり浸かっているために、将来のことを少しは心配はしますが、真剣に調査・検討して、事前の対応などはしません。せいぜい生命保険や火災保険や自動車保険をかけるくらいの大雑把なことしかやっていないのです。時代は刻々と変化していきます。常にアンテナを張り巡らし、自分や家庭や家族や社会や国家や地球の先に何が待っているか?何が潜んでいるか?を考えて自らの態度をはっきりしておきたいものです。最近の大企業の倒産やリストラやデフレや保険や年金の破綻や超高齢化などは、多分多くの方々が”予想していなかったと”いうか”予想しようとしていなかったこと”なのでしょう。少なくとも40歳50歳の人であれば、自分の健康や老後の心配くらいは十分やって、真剣に対処しておいて下さい。
      日本人は農村文化というか、島国根性というか、将来のことは、やがて来るものその時になってみないとわからない、その時に考えれば良いという思考が優勢なのです。将来を自分の手で変えるとか自分の手で避けるとか積極的に緩和しようとするチャレンジの意欲が希薄なのです。日本の今のさんざな状況に対しても、もうすでに危機が到来しているのに、何もせず手をこまねいているばかりです。急激かつ困難な問題に身をかがめて危機が通り過ぎるのをひたすら待つという長年染み付いた姿勢が日本人のアキレス腱のようですね。
      特に若い人の場合は、もっと最悪です。彼らは、本質的に教育訓練がされていません。後悔する人は、まだ良いほうで、彼ら若者の大部分は、後悔なんてこともあまりしていません。彼らは生まれながらに、安全・快適・汗水流さず・何でも簡単に得られる、こんな生活を送っている若者は、「苦しさへの対応力=ゼロ」なのです。三代目が何故家をつぶすかというと、単純に、「苦労知らず=教育訓練されていない」からなのです。一代目は、子供や孫に苦しみを教育・訓練する仕組みをきちんと組み入れておかないといけないのです。又は世襲をやめるべきなのです。つらさ・苦しみは、沢山の後悔の体験に匹敵します。人間は後悔しないと本物になりません。今の若者にあるとすれば、それは、三代目の贅沢な悩みばっかりなのです。
      戦後日本が驚異的な発展を遂げたのは、戦争によって全てを失った(=大後悔)のおかげなのです。ところが、今後の日本はその点絶望的です。まさに三代目の世代へのバトンタッチの時期にさしかかっているのです。
      教育訓練は、学校ではできません。政治家は教育は、学校でやるものと感違いしています。ところが昭和40年以前の日本は、生活=教育訓練になっていたのです。学校は、八百屋や魚屋と同じに、知識を買うところでしかありません。しかも先生は八百屋魚屋以下の苦労知らずの(学校屋さんで知識を沢山買って来た)人ばっかりになってしまいました。万一そんなところ(学校屋さん)で、人間の真の教育訓練ができたとしたら、チョー・ラッキーです。どれだけつらさ・苦しみを味わったかが、本当の意味の教育修了証書なのです。学校の終了証書は領収書に過ぎません。
      「後悔先に立たず」これでも駄目なのに、「苦労も後悔もしない人々=教育訓練されていない文盲ばかり」で溢れる日本は、今後どうなるのでしょうか?少し言い過ぎたかもしれませんが、こんなことが真実でないことを祈る私です。

ISO認証取得するには?(ISOここがわからない:その3)

     最近小さな企業様でISO認証を取得しようとする場合が増加しています。そういう企業様は、いろいろ調査されるのですが、基本的にほとんどわからない状態で調べていますので、調査された企業様でも、かなり理解がいい加減な段階で判断されることが多いように思います。不思議なのは、私の聞く範囲では、最も駄目な会社を選んでしまう企業様が多いことです。何故か、あまりおすすめできない経営コンサルタントを選んでしまうことが多いのです。話巧みなコンサルタント会社の営業さんに難しいことを言われたり、まんまと騙されてしまうのです。私の場合はコンサルタント兼営業をやっていますから、真実のお話を具体的事例を用いて丁寧に説明するのですが、どうもお客様の理解が不十分のために、私のような丁寧な説明より、ことば巧みな営業マンにだまされる方のほうが多いようです。ISOの場合企業様がわからないことを良いことにして、素人をまんまとだますのです。こういことは誠に残念です。医者と患者みたいなもので、よくわからないから、名前や格好や偉そうな話に気をとられて、エイヤーで決めてしまうようです。
      是非、いい加減な理解のまま、簡単に決めないで、とことん納得いくまで何回も呼び付けて確認しましょう。
      企業様がISO認証を始める場合に気をつけることを次ぎに紹介します。
      @指導費用は、精々180万円くらいまで、私どもはISO14001は120万円ISO900は140万円くらい
      A文書は作成してもらうほうがよいでしょう、自力で作るのは無理があります
      B期間は6〜8カ月(長いほうが無難ですが)
      C訪問指導は12回くらい(審査立ち会いは不要です)
      D教育も指導費用の範囲でやってもらいます(社外の高額なセミナーはやめましょう)
      E事務局は2名ないし3名体制でやりましょう
      F文書や資料はパソコンのデーターでもらいましょう
      G審査機関はどこでも同じです、むしろ大手は、避けたほうが無難
      H審査費用は最大50万円くらいの差があります、あい見積もりをとりましょう。総予算は初年度30名くらいの企業で、300万円以内
      I先生の指導が納得いかない場合は、早めにことわりましょう。そうしないと不幸な事態になってしまいます。
      J経営コンサルタント会社は大手はやめたほうが無難、専門家の人に優れた先生を選んで紹介してもらうのが良い
      K経営者や取締役、部課長も積極的に勉強し参加しましょう

      その他質問は、どしどし遠慮なくして下さい。具体的には、訪問してパソコンで実際にどういうことをどうやるかをご覧戴けます。中途半端な理解でなくきちんと理解してから役立つ先生を選び開始しましょう。

安曇川山中で思うこと、「決められたレールの上を歩く人生でなく、自分自身の道を作ること」

       私は、戦中昭和18年に東京浅草寺の付近に生まれ、埼玉県の山村に疎開し、戦後は、東京の浅草蔵前の近くで育ち、頭がそんなに良くないのに何故か「東京工業大学」などというとんでもない立派な大学に入学できてしまった。当時、父親のなんと喜んだことか?日大・早稲田・東京工業大学総なめであったのですから、親父さんは、自分が合格したようにルンルン、棚からぼた餅、「俺の子供がねー東京工業大学に入学したんだ、早稲田も受かっちゃってね」なんて皆に言うような具合だったらしい。親戚一同もびっくり、「ええー和隆さんが?国立一期校のかの有名な東京工業大学へ入学したか!凄いのねー」てなもんだったらしい。
      当時の日本は、高度成長の前夜、子供が有名大学に入ることが、一家の名誉であった時代でした。ちなみに当時の国立大学の授業料は年間2,3万円くらいだったと思います。ところで、そんなとんでもない奇跡が起きてから、修士過程を修了し、かの有名な松下電器産業に入社したので、またまた「えー凄い」てなもん。当時の東京の人にとって大阪に行くというのは、かなり大胆な所業でもあったのですが。そうして大阪に一人赴任、しかし10年目に「この会社は駄目だ」とやめてしまうのです。
      この時ばかりは、「あいつは、アホカー!」だったみたいですが。ところが、どっこい凄く良かったのです。これまた当時としては、想像すらしなかった零細企業に就職してしまったのですが、予想外に、この会社は、凄い立派な会社だったのです。事情があって倒産しかかっていたのですが、短期間に収益体質に脱皮できたのです。ここでは、社長さんや息子の専務や弟の技術課長に随分勉強させてもらいました。「ラッキー」ついていましたね。小企業の子息が大企業に就職することは多かったと思いますが、私のような大企業に勤務する者が、わざわざ小企業を選んで転職するなんてことをした人というのはまあ皆無であったように思います。このことは、私にとって他の経営コンサルタントとかなり差別化できている要素の一つになっています。だいたい大企業一筋の人間は、意外と、ひどく世間知らず・井の中の蛙・かたわ者だと気付いたからです。
      その後、仕事がきつくて体重が減り、腰痛をこじらしたために、やむなく退職し、半年養生後、またまた偶然にも京都のローム株式会社に転職するのです。ロームも私が入社当時は、業績は業界ビリでしたが、苦労の末、数年後日本一の座に上り詰めることになるのです。そして私の所属する製造部も長年の大赤字を脱し、生産管理課長としての役割を修了した頃、急に地球環境管理の責任者を命じられました。生産管理課長でへとへとの時期を終わりやっと一息の時期でしたから、「いよいよ俺の活躍する場が来た」と地球環境管理に取り組み、一生懸命がんばりました。孤軍奮闘大きな成果と能力アップと人脈も沢山作りました。
      ところが、元気で明るい、有能な妻が予想だにしない大病だったことが判明したのです。妻が脳腫瘍、仕事と看病でひっくりかえり、東京出身の私には、京都には、一人も身寄りはなく、子供は知らん顔で、孤軍奮闘大変でした。ISO審査員の資格や国家試験の資格を取得して、退職し、妻の看病に専念しましたが、1年ぐらいして、いい加減な薮医者にさんざやりたい放題やられて、他界してしました。仕事(収入)はない、妻もいない、それならばいっそのこと、介護の仕事をしようと、介護の仕事に就こうという矢先、経営コンサルタント会社への就職の話が急遽舞い込み、思い切って先生になることを決断しました。
      しかし経営コンサルタント会社のあまりのひどさに驚き、半年もしないうちに独立してしまいました。大手コンサルタント会社というのは、ろくな先生がいないのにかなり多額の報酬を得ていました。その後、どこの大手経営コンサルタント会社も同様に、ひどいのだということを知ることになりました。ちなみに独立当時ISOの指導費は、1本500〜850万円くらいでした。随分良い収入でした。ところが、ISOコンサル参入者が急増し、どんどん値下がりが続き、今は相場が180万円以下となっています。これでは、日本には優れた経営コンサルタントは、育ちませんね。こういう役立つことにこそ、国や県などがもっと支援すべきだと思うのですが、というのは、それによって日本企業の体質が飛躍的に改善されることは明らかなのですから。病気の医者は高額所得なのに、経済の医者である経営コンサルタントの収入が少ないのでは、日本の凋落はいたしかたないことでしょう。マイナスのことに幾ら金をかけても良くはなりませんからね。
      そうこうするうちに、ある日安曇川に来て、中古の安いログハスを急遽購入することになってしまいました。今迄5年を自然の豊かな山で一人静かに住む(落ち着く)ようになったのです。これも「地球環境や人間性豊かな生活を体験せよ」という神様の啓示に思えたのです。インターネットやEメイルは一生すまいと思っていましたが、仕事上やむを得ず勉強し、Eメイルを始め、すぐに自分のホームペイジも作りました。ホームペイジによって人里離れた山中に住む者でも、充分に営業活動ができるようになったことを実感しました。京都伏見を事務所にして滋賀を支所にして事業をやっています。
      今、滋賀県高島郡安曇川町大字長尾字の山中で一人、仕事と生活を両立させている自分を振り替えると何と不思議な人生なんだろうと思わざるを得ません。「随分他人と違った人生になったなー」というのが実感です。戦後の日本では、「決められたレールの上を着実に歩く時代」だったのに、自分も一度は、そのレールに乗ったのに、数々の偶然が重なりあう結果として、東京の浅草に生まれ育った何の変哲もない人間が滋賀の山の中に一人で暮していることは、妙な結末ではありますが、私には何か必然性があってこうなったように思えてしまうのです。
      今若者は、社会の大きな変革について行けず又はついて行こうとせずに、フリーターや此れ迄に考えられもしない生活様式・行動様式を実行しています。良い悪いは別にして、私のように5回も転職し、8回も引っ越しをした者としては、他人と違う考え方や行動をどんどんトライしてみることを日本人に大いにお勧めしたいのです。
      今、60歳になって安曇川で静かに日々過ごしていると、私に特別何か課せられた仕事や使命があるんではないかなんて考えてしまうのです。それとも、たまたま少し変った者に過ぎないのでしょうか?でもあれこれやって来た自分の人生を悔やんではいません。それどころか、自分としては、楽しい人生でもあったし、今も楽しい人生でもあります。今後も、人間の新しい生き方に関して、何かが起こってくれることを期待しています。
      安曇川は、今日は一日中小雨、木々にとっては恵みの雨となりました。来週以降は、急速に春めき、美しい、可憐な野のスミレや野の花々が一面咲くでしょう。ここ2週間くらいが山では、草花が一斉に咲き出す時期なのです。本当に静かですよ。鳥達も今は、あまり囀りもせず、まだ静かです。夜はまだかなり冷えますので、虫も生き物もまだ眠っているようです。
      「戦争反対・平和を」と声高に喚く人々は、都会である種の戦争を日々やっている又は仕掛けているような気がします。あの方達にとって平和とは?物や騒音や人で溢れる都会でのいわゆる豊かさや便利さが満ち溢れた生活が平和のシンボルなのでしょうか?私にとっては、都会には平和のかけらすら無いように思うのですが?都会は平和のシンボルではないのです。きな臭い戦争の火種がくすぶるのが都会であるような気がしています。「平和」をと言うなら、自分自身の生活や周囲からもっと積極的に根源的な平和を追求すべきだと考えています。

ISO14001で文書や記録は、「電子文書」でも良いのか?(ISOここがわからない:その2)

       ISO認証取得をした企業では、膨大なファイルがあるという印象がありますが、今は日本でもパソコンで仕事をする会社がほとんどになっていますから、ISOもパソコンに文書や記録を保存するのが、主流になりつつあります。ISOでは、電子文書でも良いことが規定されています。どしどし電子文書化して下さい。以前から高額な専用のソフトもありますが、最初から完璧